他に楽しい事を見付けて?俳句がどうでもよくなっている昨今。
スランプかって?、そんな大それたことが言える立位置とは違う。田舎の俳句愛好者が俳句が詠めないからって、スランプなどと言葉を使うとちゃんちゃらおかしい。
が、、、この開き直って悟りを開いた自分を誉めたいことは嘘、ほんと。
昨日は誌の締切日だった。急遽10句作って、明日になろうとする時間にポストへ足を運んだ。
もし何か月先で俳誌が届く。投句をしていなかった?ページを開く時、没と違い、投句をやりなかって白紙とは、判っていても、やはり淋しいと思った。又、俳句熱が甦っているかも知れないと考えた末、おざなりの付け焼刃みたいな句を投句することにした。
「KOSIはモンロー主義というか孤高を守っているイメージがこれまで強くあった。」
300記念号での前主宰と編集に携わる人との会話。
読み進むうちに、自分が思っていた事と思うことが全く同じ。合点。こころの中のもやもやした霧のようなものの正体が見えた感じ。
「 (現代俳句月評)ではいい句をいいと言うだけのこと。____俳誌を含めなかなかうまくいっていない。なぜかというと、ほとんどな場合、エールの交換、、、、」
「、、、、、少し手軽に俳句を身につけられないかと思ってっている。教える側はただのレッスンプロになってしまうし、学ぶ側はただハウツーを学んで、ああよかった、、、、」
「 KOSIでは、こういう俳句をほめているんだなと外の人たちが認識するってことで、また違ってくる、、、、、、」
まあ、一読をすると考えさせられる事ばかり。全没になったと哀しいがっている自分の見当違いがよく理解できた。
もっともっと、前主宰の語ることを書きたいが、この結社で学ぶ幸せを充分に理解し、自分では消化しきれていない想いと全く同感だったことが白日にさらされたような対談の中味であった。
ますます、俳句感が難ししくなった。詠めないことは抜きにして、モンロー主義か!思い当たるふしは往々にしてある。
最近、野原や空き地を真黄色にそめていた、背高泡だち草が影を潜めた。その花がほんのわずかに更地にあった。まだ黄色くなっていなかったが、あればあったで邪魔者の外来の花、無ければ咲き誇っていた泡立ち草がおお、生きていたかと懐かしかったり、、、、、
道ばたに咲いているコスモス、背高泡立ち草、田舎の俳句愛好者はさて、この花をどう詠もうか?
俳句などどうでもよくなっていたのとちがうのじゃなかったけ?