医療の専門分化は、進歩をもたらした。一方、臓器のみあるいは病気のみを見る風潮ももたらした。プライマリーケアの充実が叫ばれたり、新臨床研修制度が発足したのも、人丸ごとを見ることができる能力を身に着けた医師が必要との点も理由の一つと思われる。
しかし一方臓器移植を医療として定着させようとの努力も見られる。臓器移植の発想は、人体の個々の臓器を部品と考えるという意味で、人体機械論と思われる。実際の医療では、全体を見る眼と、局所を見る眼の両方が必要だから、機械論的視点が必要であることは否定しない。ただ機械論ですべてを見ていいとは思えない。
今回、臓器売買の疑惑有りとされた、生体腎移植の問題が出てきた。この生体臓器移植という行為には、私自身三つの点で問題を感じる。
1:悪くなった部品を、正常に機能している製品の部品と取り替えるという発想を医療に導入するのは、本当に正しい発想なのか。
2:善意の生きた方の臓器を、必要な人に移植するというのは、提供者側の身を挺した愛との側面もあるのだろうが、基本的に健康な体にメスを入れるという傷害行為を前提としたものを医療と位置づけてよいのか。
3:臓器が価値を持つ以上、資本主義の社会では売買の対象となるのは避けられないと思われるが、それを抑制する倫理をどのように構築するのか。
といった点である。
一部の国では、公然と臓器売買は行われている。日本の消費者金融の取立て者は、取立ての際に「腎臓を売れ。」などと迫る。ある国では、生体バンクの存在までささやかれている。などという事実を正面から見据え、議論し、法整備を進めないと、医療サイドばかりの先行は今後問題を増幅しかねない。
移植医療の行き着くところは、自己の細胞から生み出したクローンを、自己の臓器として使うということだろう。そのクローンが人格を持っている場合、その個を臓器提供のためのものと割り切る。生体臓器移植は下手をすると、そのような行為を倫理的に肯定するところまで行ってしまうのではと危惧する。
しかし一方臓器移植を医療として定着させようとの努力も見られる。臓器移植の発想は、人体の個々の臓器を部品と考えるという意味で、人体機械論と思われる。実際の医療では、全体を見る眼と、局所を見る眼の両方が必要だから、機械論的視点が必要であることは否定しない。ただ機械論ですべてを見ていいとは思えない。
今回、臓器売買の疑惑有りとされた、生体腎移植の問題が出てきた。この生体臓器移植という行為には、私自身三つの点で問題を感じる。
1:悪くなった部品を、正常に機能している製品の部品と取り替えるという発想を医療に導入するのは、本当に正しい発想なのか。
2:善意の生きた方の臓器を、必要な人に移植するというのは、提供者側の身を挺した愛との側面もあるのだろうが、基本的に健康な体にメスを入れるという傷害行為を前提としたものを医療と位置づけてよいのか。
3:臓器が価値を持つ以上、資本主義の社会では売買の対象となるのは避けられないと思われるが、それを抑制する倫理をどのように構築するのか。
といった点である。
一部の国では、公然と臓器売買は行われている。日本の消費者金融の取立て者は、取立ての際に「腎臓を売れ。」などと迫る。ある国では、生体バンクの存在までささやかれている。などという事実を正面から見据え、議論し、法整備を進めないと、医療サイドばかりの先行は今後問題を増幅しかねない。
移植医療の行き着くところは、自己の細胞から生み出したクローンを、自己の臓器として使うということだろう。そのクローンが人格を持っている場合、その個を臓器提供のためのものと割り切る。生体臓器移植は下手をすると、そのような行為を倫理的に肯定するところまで行ってしまうのではと危惧する。