喜び上手
先週
胡国家主席と福田首相をお迎えしたニュースは
テレビや新聞、インターネットなどで
度々報道された。
今は、瞬時にアメリカにいても
ヨーロッパにいても、日本のテレビが観られるので
ニュースもほぼ同時に伝わる。
なので、
”テレビ、観たよ”という第一報が
ロンドン郊外からであったり、
アムステルダムからであったりする。
勿論、今回のことは
中国の国家主席のニュースであったから
中国の知人や
知らない人までもが英語でメールを下さったりも、した。
そして、ブログにも書いたように
私の大切な友人からも
続々とが届き、感謝の気持ちでいっぱいだった
中には小学校時代のクラスメートや
高校時代の先輩や
普段お付合いが遠ざかっている方からのものもあったり、
夜勤などがある超多忙なお医者さまからのものもあったり、した。
”新聞に載っていましたので、写メします”
という可愛いメールもあった。
”大役、お疲れさまでした”
そう、書いてくださる方が多かった。
それは、純粋に私がテレビなどに出るのが
嬉しいというような人物ではないことを良く知っている方ばかりで
私が本当に今回のことで
日中の歴史に光をさす、という使命を果たそうとしていたという
私の気持ちを知っていてくださる方たちからの、
それが無事達成されたことへの、喜びのメールだ。
・・・ところが、だ。
私がこの使命を果たしたことを
とっても喜んでくれるだろうなぁ、と思っていた
何人かの人たちから、
スルー(無視)された。
このことがとても大変だということも知っていて
私が真剣に取り組んでいることも知っていて
それを
とても応援してくれていたはずの人、たち。
・・・・・・
私は、すこし、さみしい気持ちになった。
これは、どういうことなんだろう・・・。
と、少し考えてみた。
もしかしたら、ある種のやきもちややっかみ、
みたいな気持ちがあるのかも、しれない。
人はそれぞれ色んなことを勝手に思うものだから
<自分の範疇でないことに、悩まない>
ことが、成功の秘訣だと佳川奈未先生もおっしゃっている。
あとは・・・
私が勝手な<枠>を作っていて・・・
それは<親戚だから>とか
<分かり合える(と思っていた)トモダチだから>とか
<尊敬していた方だから>
きっと、喜んでくれるだろう・・・というような。
でも、そういう枠を取り外してみて、
肉体すらも、取り外してみて、
全てのことは
ただそこにある<エネルギー>であるというところにたどり着くと・・・
”喜び”に共鳴出来るエネルギーと
共鳴出来ないエネルギーがあるだけなのだ、
ということに気づく。
誰かのことをココロから祝福したり、
激励したり、
喜んだりすることが出来る<喜び上手>の
愛あふれたエネルギーと
何やら祝福したり、励ましたり、
喜んであげることが出来ないエネルギー。
その二つがあるだけ。
そしてそれは、
どちらが優れているということでもなく。
どちらが劣っているということでもなく。
その二つがあるだけ。
そのどちらに、自分が共鳴していたいか、だけである。
だったら私は
<喜び上手>のエネルギーに
共鳴していこう。
誰かが一生懸命やっていることに、エールを送りたいし
嬉しいことがおこったことが分かった時には
喜びの気持ちを送りたい
それは、自分が減ることぢゃない。
かえって、増えていくことだ。
そんな気づきを得た。
あらためて、私のまわりに集まってきてくれた
<喜び上手>のエネルギーたちに、感謝を捧げたい
先週
胡国家主席と福田首相をお迎えしたニュースは
テレビや新聞、インターネットなどで
度々報道された。
今は、瞬時にアメリカにいても
ヨーロッパにいても、日本のテレビが観られるので
ニュースもほぼ同時に伝わる。
なので、
”テレビ、観たよ”という第一報が
ロンドン郊外からであったり、
アムステルダムからであったりする。
勿論、今回のことは
中国の国家主席のニュースであったから
中国の知人や
知らない人までもが英語でメールを下さったりも、した。
そして、ブログにも書いたように
私の大切な友人からも
続々とが届き、感謝の気持ちでいっぱいだった
中には小学校時代のクラスメートや
高校時代の先輩や
普段お付合いが遠ざかっている方からのものもあったり、
夜勤などがある超多忙なお医者さまからのものもあったり、した。
”新聞に載っていましたので、写メします”
という可愛いメールもあった。
”大役、お疲れさまでした”
そう、書いてくださる方が多かった。
それは、純粋に私がテレビなどに出るのが
嬉しいというような人物ではないことを良く知っている方ばかりで
私が本当に今回のことで
日中の歴史に光をさす、という使命を果たそうとしていたという
私の気持ちを知っていてくださる方たちからの、
それが無事達成されたことへの、喜びのメールだ。
・・・ところが、だ。
私がこの使命を果たしたことを
とっても喜んでくれるだろうなぁ、と思っていた
何人かの人たちから、
スルー(無視)された。
このことがとても大変だということも知っていて
私が真剣に取り組んでいることも知っていて
それを
とても応援してくれていたはずの人、たち。
・・・・・・
私は、すこし、さみしい気持ちになった。
これは、どういうことなんだろう・・・。
と、少し考えてみた。
もしかしたら、ある種のやきもちややっかみ、
みたいな気持ちがあるのかも、しれない。
人はそれぞれ色んなことを勝手に思うものだから
<自分の範疇でないことに、悩まない>
ことが、成功の秘訣だと佳川奈未先生もおっしゃっている。
あとは・・・
私が勝手な<枠>を作っていて・・・
それは<親戚だから>とか
<分かり合える(と思っていた)トモダチだから>とか
<尊敬していた方だから>
きっと、喜んでくれるだろう・・・というような。
でも、そういう枠を取り外してみて、
肉体すらも、取り外してみて、
全てのことは
ただそこにある<エネルギー>であるというところにたどり着くと・・・
”喜び”に共鳴出来るエネルギーと
共鳴出来ないエネルギーがあるだけなのだ、
ということに気づく。
誰かのことをココロから祝福したり、
激励したり、
喜んだりすることが出来る<喜び上手>の
愛あふれたエネルギーと
何やら祝福したり、励ましたり、
喜んであげることが出来ないエネルギー。
その二つがあるだけ。
そしてそれは、
どちらが優れているということでもなく。
どちらが劣っているということでもなく。
その二つがあるだけ。
そのどちらに、自分が共鳴していたいか、だけである。
だったら私は
<喜び上手>のエネルギーに
共鳴していこう。
誰かが一生懸命やっていることに、エールを送りたいし
嬉しいことがおこったことが分かった時には
喜びの気持ちを送りたい
それは、自分が減ることぢゃない。
かえって、増えていくことだ。
そんな気づきを得た。
あらためて、私のまわりに集まってきてくれた
<喜び上手>のエネルギーたちに、感謝を捧げたい