中村紘子が7月26日に大腸癌で亡くなられました。72歳でした。
山梨生まれの世田谷育ちで慶應義塾中学を卒業しています。
1965年のショパン国際ピアノコンクールで4位に入賞しブレークします。
庄司薫は1937年生まれで、全盛期?の日比谷高校から東大に進学し作家を目指します。
1968年に、”赤頭巾ちゃん気をつけて ” で芥川賞を受賞します。
この作品はベストセラーとなり、私も愛読しました。
私の妹は、この作品に出てくる、” 舌かんで死んじゃいたくなる ” という表現を今だに愛用しています。
今ではとてもナウいとは思われない表現ですが、妹の人生では重宝されるのでしょう....
さて、この作品中に、” 中村紘子さんみたいな若くて素敵な女の先生について....優雅にショパンなどを弾きながら暮らそうかなんて思ったりもするわけだ。 ”
というくだりがあります。
” あなたの名前が小説に出ているわよ。 ” と仲間から指摘されて、中村紘子はそれを読むことになります。
そして感動した彼女は、巻末の顔写真をみて、髭濃いくて泥棒みたいと思います。
しかし、その瞬間に、” 私、この人と結婚するわ。 ” とひらめいたそうなのです。
彼女は八方手をつくして、庄司薫が執筆のためにこもっていたホテルの部屋をつきとめて電話します。
” 中村紘子と申します。サインをいただきたいのですが.....”
ここから二人の交際が始まり、5年後に結婚したのです。
ところで、庄司薫って消えてしまいましたよね。
調べてみると、68年に赤頭巾、69年さよなら快傑黒頭巾、70年に白鳥の歌なんか聞こえない、75年僕の大好きな青髭と順調に小説を発表しました。
この、 ”赤、黒、白、青 ” は日比谷高校がらみの庄司薫を主人公とした四部作と呼ばれています。
中村紘子と知り合ってから結婚直後までですよね。
しかし、この後、庄司薫は雑文こそ書くものの小説は一作も書いていません。
つまり40年間も書いていないのです。
まあ、中年になっても青春文学を書き続けることに抵抗があったのかもしれないのではと勝手読みしたくもなります。
私は50年近くも以前に読んだそれらの作品を読み返してみようと思います。
赤頭巾で、私がかすかに覚えている内容は、横断歩道の安全な渡り方と、” ああ、その本なら読んだよ。 ”とさりげなく言うだけのために、
ひたすら読書量を増やすということぐらいですが....
山梨生まれの世田谷育ちで慶應義塾中学を卒業しています。
1965年のショパン国際ピアノコンクールで4位に入賞しブレークします。
庄司薫は1937年生まれで、全盛期?の日比谷高校から東大に進学し作家を目指します。
1968年に、”赤頭巾ちゃん気をつけて ” で芥川賞を受賞します。
この作品はベストセラーとなり、私も愛読しました。
私の妹は、この作品に出てくる、” 舌かんで死んじゃいたくなる ” という表現を今だに愛用しています。
今ではとてもナウいとは思われない表現ですが、妹の人生では重宝されるのでしょう....
さて、この作品中に、” 中村紘子さんみたいな若くて素敵な女の先生について....優雅にショパンなどを弾きながら暮らそうかなんて思ったりもするわけだ。 ”
というくだりがあります。
” あなたの名前が小説に出ているわよ。 ” と仲間から指摘されて、中村紘子はそれを読むことになります。
そして感動した彼女は、巻末の顔写真をみて、髭濃いくて泥棒みたいと思います。
しかし、その瞬間に、” 私、この人と結婚するわ。 ” とひらめいたそうなのです。
彼女は八方手をつくして、庄司薫が執筆のためにこもっていたホテルの部屋をつきとめて電話します。
” 中村紘子と申します。サインをいただきたいのですが.....”
ここから二人の交際が始まり、5年後に結婚したのです。
ところで、庄司薫って消えてしまいましたよね。
調べてみると、68年に赤頭巾、69年さよなら快傑黒頭巾、70年に白鳥の歌なんか聞こえない、75年僕の大好きな青髭と順調に小説を発表しました。
この、 ”赤、黒、白、青 ” は日比谷高校がらみの庄司薫を主人公とした四部作と呼ばれています。
中村紘子と知り合ってから結婚直後までですよね。
しかし、この後、庄司薫は雑文こそ書くものの小説は一作も書いていません。
つまり40年間も書いていないのです。
まあ、中年になっても青春文学を書き続けることに抵抗があったのかもしれないのではと勝手読みしたくもなります。
私は50年近くも以前に読んだそれらの作品を読み返してみようと思います。
赤頭巾で、私がかすかに覚えている内容は、横断歩道の安全な渡り方と、” ああ、その本なら読んだよ。 ”とさりげなく言うだけのために、
ひたすら読書量を増やすということぐらいですが....
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