昨日は何の予備知識も無く上記映画を電気館で観ました。
ジャンルはと言えば、” お伽話 ” でしょうか。
ニューヨークの下町で4代目として小さな靴の修理屋を営む中年やもめのアダム・サンドラーは貧乏で単調な毎日に辟易としていました。
ある日電動ミシンがショートしてしまったので、親子代々使われてきた手動の靴専用ミシンを使って修理を続けました。
そして、たまたま修理をし終えた靴を履いてみたところ、その靴の持ち主に変身しているではありませんか。
魔法のミシンを理解した彼は、様々な客に変身して人生をエンジョイし始めます。
このエンジョイの仕方が、私に言わせれば物足りません。
チャイニーズに変身して中華街に入り込み、太極拳を踊って、楽しいのでしょうか?
黒人少年に変身して、思いを寄せる女性の仕事ぶりを眺めることに、何の意味があるのでしょうか?
不細工なオカマに変身してみるのは隠れた性癖なのでしょうか?
ハンサムな若者に変身してパブで逆ナンされるまではいいのですが、次にどこへ行くかと尋ねられて
母親との二人暮らしの自宅と答えて、彼女にドン引きされてしまうのは如何なものでしょうか?
アダムは美男美女のカップルの彼氏が外出するのを確認して、彼に変身し彼女の部屋を訪れます。
シャワー室呼びつけられたアダムは彼女の美しいヌード姿に感動します。
彼女に誘われたアダムはズボンを脱ごうとしますが、靴を脱ぐわけにはいきませんので果たせません。
あたふたしながら、ほうほうの体で退散します。
間抜けですよね。
私ならば別室で裸になり、靴だけを履きなおして、事に臨むでしょう。
悪徳ギャングから、5万ドルもせしめておきながら、それを返しに行くとは何事でしょう?
そのことから様々なトラブルに見舞われることになっていくのですから。
突っ込みどころ満載のストーリーですが、お伽話とみなせば、まあ、そこそこの作品かもしれません。
しかし、このてのストーリーは邦画ではありえませんよね。
考察してみれば、日本には魔法をかけるというコンセプトが存在しないのかもしれません。
おそらくはキリスト教の考え方なのでしょう。
ビビディバビディブーとか口元ピクピクで、カボチャを馬車に変えたり、王子をカエルに変えたり、食器を片づけたりするのが日常茶飯事なのかもしれません。
まてよ、日本にもチチンプイプイなんてのがありましたよね。
でも、あれは魔法では無く、おまじないでした。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます