自然となかよしおじさんの “ごった煮記”

風を聴き 水に触れ 土を匂う

いのちの大変化,待つたのしみ

2016-06-19 | アゲハ(ナミアゲハ)

わたしが生きものいのちを感じるのは,「食べる」「ウンコをする」「産む」「生まれる」「脱皮する」「……」,そんなふうになんらかの動きがあるときです。瞬時の出来事といってもよいぐらいです。そのときに,生きものならではの変化が見え,生態をとらえる貴重な情報が得られる気がします。

瞬間に生起する事柄は偶然目撃できるかどうか,そんな偶然性にかかっています。たまたまそこに居合わせなければ目にとまりません。目にとまっても,カメラがなければ映像として記録できません。

先が読めて,だいたいいつ頃に次の変化が起こるか予測できる場合は,あらかじめこころづもりができます。それでも,ささいなミスでご破算になる場合があります。わたしのミスでチャンスを逃した最大の例は,イシガケチョウの卵の変化を追うというものでした。産み付けられた状態そのままで変化を観察したくて,放置していたのです。ある日,見ると卵の姿が見当たりません。外敵に襲われたのです。この地方では珍しいチョウなので,ほんとうにがっかりしました。

チャンスを見逃した最近の例をもう一つ。アゲハの孵化を追って観察を続けてきて,間もなく孵化するなと予測されたとき,事情があって30分間その場を離れました。


その間に,殻に穴を開けて誕生,そうしてすでに卵殻を食していたのでした。ずっと待っていて,最後の最後に肩透かし! なんともお見事な誕生物語です。マアこういう例は何度も何度も経験済みなので,きっぱり自己責任に帰するほかありません。さほどに,いのちの展開というものは順序が決まっているにもかかわらず読みにくいものです。


ということで,今,アゲハの孵化を撮るたのしさにはまっています。6月19日(日),畑に植えているレモンの木でたくさんの卵を発見。いくつも! これだけあれば,孵化の決定的瞬間が狙えそうです。


いのちの大変化は生きもののからだの大きさに関係なく起こります。いのちの営みはからだの大きさによらず尊いものだと,わたしは思っています。とりわけ,今のわたしには小さないのちの行方がとても気になるのです。