神代巻が終わり、いよいよ神武天皇紀に入る。ここからは神武東征を順に考えていくことにする。まず、神武天皇が東征するにいたった状況を書記に見てみよう。彼は45歳になったときに兄弟や子供にこう言った。「昔、高皇産霊尊と天照大神がこの豊葦原瑞穗国を祖先の瓊々杵尊に授けた。瓊々杵尊は天の戸を押し開き、雲路をかき分け、先払いを走らせてから地上に降りた。そのとき世は太古の時代でまだ明るさも十分でなかった。その暗い世の中にありながら正しい道を開き、この西のほとりの土地を治めた。代々の父祖の神々は祝い事や尊敬されるような事を重ねて多くの年月を経た。天孫が降臨してから179万2470余年になる。しかし、遠いところの国ではまだ天津神の恩恵を得られず、その地の国には王がいて、村には長がいて、境界を設けて互いに争っている。 ところで塩土老翁に聞くと、東に良い国があり、青い山に囲まれている。その中に天磐船に乗って飛んで降りた者がいるという。思うにその土地は必ず大業を広め、天下を治めるに相応しい場所だろう。きっとこの国の中心となるだろう。その飛び降りた者とは饒速日(にぎはやひ)だろう。その土地へ行って都にしようではないか」
瓊々杵尊が降臨して治めたのが西のほとりの土地、日本列島の西のドン詰まり、すなわち九州南部である。そこから離れたところでは国々が境界を定めて争っているという。倭国大乱の状況を記したのだろうか。そして東には四方を青い山々に囲まれた良い国があり、天津神と同様に天から降りた饒速日がいる。この地はまさしく畿内の大和であり、その地を治める饒速日がいることを知りながらそこに都を作ろうという。これはまさしく饒速日に取って代わって王になろうという意思表示である。
さて、北九州倭国と狗奴国の国境線における戦闘では、前線で武器を生産して供給を続けることができる狗奴国が常に優勢であったと考えられる。狗奴国は前線での勝利をほぼ手中にしていた。そのタイミングで狗奴国王は自らの指揮のもと、北九州倭国を統治し、さらに倭国の本丸である畿内の邪馬台国を制圧する目的で狗奴国を発った。狗奴国王とは倭人伝にある卑弥弓呼であり、書紀にある神日本磐余彦尊(のちに即位して神武天皇となるが、便宜上、以降は神武天皇あるいは神武と記すこととする)のことである。
もともと東シナ海を航海できるほどの海洋技術を備えていた狗奴国の王である神武は自ら舟軍を率いて、海路にて瀬戸内海を経て畿内を目指そうとした。その出発の地は阿蘇の東南、現在の宮崎県西臼杵郡高千穂町あたりではなかっただろうか。ここには高千穂神社があり、祭神として高千穂皇神、すなわち日向三代と称される皇祖神とその配偶神全てを祀っている。国境戦の大本営として、あるいは狗奴国北進後の北の都として機能した拠点だったと考える。
大本営の高千穂を出発した神武一行は五ヶ瀬川を船で下り、現在の延岡市から日向灘へ漕ぎ出した。この出航の地について、古事記には日向の名を記しているが書紀には記述がない。現在の日向市の南、耳川の河口に美々津という所がある。ここは神武東征出発に関する伝承が多く残っている。一行の出発が急遽早まったため、早朝に里人を起こして回ったとする伝承から「起きよ祭り」という祭りがある。また、美々津には「つき入れ餅」という餅があるが、一行の出発にあたり、餅の餡を包んでいる時間が無かったため小豆と餅を一緒につき込んで渡したことから名づけられたという。しかし、高千穂を出発したと考えれば出航の地は五ヶ瀬川河口とするのがよいだろう。ちなみにこの五ヶ瀬川の上流には西臼杵郡五ヶ瀬町があり、神武の長兄である五瀬命との関連を想起させる。五ヶ瀬川から日向灘へ出た神武一行の第一の寄港地は宇佐であった。なぜこの宇佐に上陸する必要があったのだろうか。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。
瓊々杵尊が降臨して治めたのが西のほとりの土地、日本列島の西のドン詰まり、すなわち九州南部である。そこから離れたところでは国々が境界を定めて争っているという。倭国大乱の状況を記したのだろうか。そして東には四方を青い山々に囲まれた良い国があり、天津神と同様に天から降りた饒速日がいる。この地はまさしく畿内の大和であり、その地を治める饒速日がいることを知りながらそこに都を作ろうという。これはまさしく饒速日に取って代わって王になろうという意思表示である。
さて、北九州倭国と狗奴国の国境線における戦闘では、前線で武器を生産して供給を続けることができる狗奴国が常に優勢であったと考えられる。狗奴国は前線での勝利をほぼ手中にしていた。そのタイミングで狗奴国王は自らの指揮のもと、北九州倭国を統治し、さらに倭国の本丸である畿内の邪馬台国を制圧する目的で狗奴国を発った。狗奴国王とは倭人伝にある卑弥弓呼であり、書紀にある神日本磐余彦尊(のちに即位して神武天皇となるが、便宜上、以降は神武天皇あるいは神武と記すこととする)のことである。
もともと東シナ海を航海できるほどの海洋技術を備えていた狗奴国の王である神武は自ら舟軍を率いて、海路にて瀬戸内海を経て畿内を目指そうとした。その出発の地は阿蘇の東南、現在の宮崎県西臼杵郡高千穂町あたりではなかっただろうか。ここには高千穂神社があり、祭神として高千穂皇神、すなわち日向三代と称される皇祖神とその配偶神全てを祀っている。国境戦の大本営として、あるいは狗奴国北進後の北の都として機能した拠点だったと考える。
大本営の高千穂を出発した神武一行は五ヶ瀬川を船で下り、現在の延岡市から日向灘へ漕ぎ出した。この出航の地について、古事記には日向の名を記しているが書紀には記述がない。現在の日向市の南、耳川の河口に美々津という所がある。ここは神武東征出発に関する伝承が多く残っている。一行の出発が急遽早まったため、早朝に里人を起こして回ったとする伝承から「起きよ祭り」という祭りがある。また、美々津には「つき入れ餅」という餅があるが、一行の出発にあたり、餅の餡を包んでいる時間が無かったため小豆と餅を一緒につき込んで渡したことから名づけられたという。しかし、高千穂を出発したと考えれば出航の地は五ヶ瀬川河口とするのがよいだろう。ちなみにこの五ヶ瀬川の上流には西臼杵郡五ヶ瀬町があり、神武の長兄である五瀬命との関連を想起させる。五ヶ瀬川から日向灘へ出た神武一行の第一の寄港地は宇佐であった。なぜこの宇佐に上陸する必要があったのだろうか。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。