吉備を出て難波に入った神武は河内国草香邑靑雲の白肩之津で上陸し、龍田から大和に入ろうと南へ進んだが、道が狭く険しくて進めないのでいったん引き返し、生駒越えで入ることにした。すると孔舍衞坂(くさえのさか、現在の近鉄線石切駅あたりか)で長髄彦(ながすねひこ)に待ち伏せされて意図せず戦うことになった。神武一行にとっては東征開始後、初めての戦闘である。不意打ちを喰った格好になり、残念ながら神武の兄の五瀬命が大きな傷を負ったため、上陸地点まで退却せざるを得なかった。この長髄彦は大和に降臨した饒速日命(にぎはやひのみこと)に仕える土着の豪族だったと思われる。初戦を制して神武の大和侵入を阻み、その後も神武を苦しめるが、最後は神武に従おうとする饒速日命に斬られることになる。饒速日命、長髄彦については後に詳しく述べることにして話を戻そう。
神武は「日の神の子孫が日に向かって戦うのは天の道に逆らうことだ。日の神の勢いを背負って日陰が挿すように敵に襲いかかれば自ずと勝利することができるだろう。」と考えた。西からではなく東に回って太陽を背にして戦おうと船を進めて進路を南に取った。紀伊半島をぐるりと回って東の伊勢から大和を目指そうとしたのだろう。その途中、五瀬命は傷が悪化し、それが原因で亡くなったので紀伊国の竃山(かまやま)に葬られた。五瀬命の墓は和歌山市和田の竈山神社後背にある古墳「竈山墓」に比定されている。「紀伊続風土記」では墓の造営後直ちに神霊を奉斎したために墓と祠が一ケ所にあるとしている。
その後、一行は竈山からすぐ近くの名草邑(和歌山市の名草山あたり)で、その地の首長と思われる名草戸畔(なくさとべ)という女首長を討った。この名草戸畔は地元では名草姫と呼ばれているが、その死後に代わって紀伊を治めたのが紀氏とも言われている。紀氏は自らの系図で名草戸畔を遠縁に位置づけることでその正当性を主張した。
私は名草戸畔の死後にこの地を治めたのは神武に随行してきた人物であったと考える。この地は紀ノ川の河口にあたり、大和から大阪湾、瀬戸内海へ出る水運交通の要衝の地である。神武はこの地を自ら統治するために腹心の部下を残した。その人物が名草戸畔の後継者などこの地の有力者たちと関係を構築しながら統治に成功し、やがて紀氏となった。書紀によると、第8代孝元天皇の血を継ぐ屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)が景行天皇3年に紀直の遠祖である菟道彦(うじひこ、古事記では「宇豆比古」)の娘である影媛を娶って武内宿禰を生み、その武内宿禰が蘇我氏、平群氏、紀氏などの祖となった、とされている。この菟道彦こそが神武が残した部下であり、神武が日向を発って宇佐に着く前に速水之門で道案内として一行に加えた珍彦(うずひこ)、すなわち椎根津彦(しいねつひこ)ではなかったか。彼は紀ノ川河口の名草の地を押さえた後、紀ノ川を遡り、その後熊野を経て吉野に入った神武と合流、磯城の首長である兄磯城(えしき)との戦いに大きな貢献を果たした。そしてこれらの活躍が認められて神武即位後に倭国造に任じられた。紀直の先祖である椎根津彦が倭国造になったのである。
このあと、神武一行は熊野を目指すことになるが、神武は本当に熊野へ行ったのだろうか。大和まで目と鼻の先まで来ているにも関わらず、そこから紀伊半島をぐるっと回って本当に熊野まで行ったのだろうか。わざわざ熊野を経由することが合理的ではないとして実際は紀ノ川を遡ったのだとする考えもあるが、私は熊野へ行ったと考えたい。難波で五瀬命が長髄彦に討たれたときに神武はこう言った。「日の神の子孫が日に向かって戦うのは天の道に逆らうことだ。日の神の勢いを背負って日陰が挿すように敵に襲いかかれば自ずと勝利することができるだろう」と。それで進路を南に取り、紀伊半島をぐるっと回って伊勢あたりから大和を目指そうとしたのだ。日向から難波まで航海を続けてきた海洋族である神武船団が難波から少し大回りして伊勢を目指すのはそれほどおかしな話とは思わない。ただし、船団は熊野を目指したのではなく、あくまで伊勢を目指した。それがたまたまの暴風雨で途中の熊野に上陸せざるを得なかったのだ。神や鬼の存在を信じ、神話を創り出した古代人の思考や行動を現代人の「合理性」で計るのは得策ではないと考える。したがって、書紀の記述をその通りに解することに大きな支障があるとは思わない。さらに言えば、もしも熊野上陸が作り話であるなら神武東征にわざわざ熊野を登場させる理由がよくわからない。太陽を背にして戦うために迂回したのであるから伊勢まで到達させればいい。そうなっていないのは神武一行が熊野から大和に入ったのが史実に基づく話であったからにほかならない。
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神武は「日の神の子孫が日に向かって戦うのは天の道に逆らうことだ。日の神の勢いを背負って日陰が挿すように敵に襲いかかれば自ずと勝利することができるだろう。」と考えた。西からではなく東に回って太陽を背にして戦おうと船を進めて進路を南に取った。紀伊半島をぐるりと回って東の伊勢から大和を目指そうとしたのだろう。その途中、五瀬命は傷が悪化し、それが原因で亡くなったので紀伊国の竃山(かまやま)に葬られた。五瀬命の墓は和歌山市和田の竈山神社後背にある古墳「竈山墓」に比定されている。「紀伊続風土記」では墓の造営後直ちに神霊を奉斎したために墓と祠が一ケ所にあるとしている。
その後、一行は竈山からすぐ近くの名草邑(和歌山市の名草山あたり)で、その地の首長と思われる名草戸畔(なくさとべ)という女首長を討った。この名草戸畔は地元では名草姫と呼ばれているが、その死後に代わって紀伊を治めたのが紀氏とも言われている。紀氏は自らの系図で名草戸畔を遠縁に位置づけることでその正当性を主張した。
私は名草戸畔の死後にこの地を治めたのは神武に随行してきた人物であったと考える。この地は紀ノ川の河口にあたり、大和から大阪湾、瀬戸内海へ出る水運交通の要衝の地である。神武はこの地を自ら統治するために腹心の部下を残した。その人物が名草戸畔の後継者などこの地の有力者たちと関係を構築しながら統治に成功し、やがて紀氏となった。書紀によると、第8代孝元天皇の血を継ぐ屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)が景行天皇3年に紀直の遠祖である菟道彦(うじひこ、古事記では「宇豆比古」)の娘である影媛を娶って武内宿禰を生み、その武内宿禰が蘇我氏、平群氏、紀氏などの祖となった、とされている。この菟道彦こそが神武が残した部下であり、神武が日向を発って宇佐に着く前に速水之門で道案内として一行に加えた珍彦(うずひこ)、すなわち椎根津彦(しいねつひこ)ではなかったか。彼は紀ノ川河口の名草の地を押さえた後、紀ノ川を遡り、その後熊野を経て吉野に入った神武と合流、磯城の首長である兄磯城(えしき)との戦いに大きな貢献を果たした。そしてこれらの活躍が認められて神武即位後に倭国造に任じられた。紀直の先祖である椎根津彦が倭国造になったのである。
このあと、神武一行は熊野を目指すことになるが、神武は本当に熊野へ行ったのだろうか。大和まで目と鼻の先まで来ているにも関わらず、そこから紀伊半島をぐるっと回って本当に熊野まで行ったのだろうか。わざわざ熊野を経由することが合理的ではないとして実際は紀ノ川を遡ったのだとする考えもあるが、私は熊野へ行ったと考えたい。難波で五瀬命が長髄彦に討たれたときに神武はこう言った。「日の神の子孫が日に向かって戦うのは天の道に逆らうことだ。日の神の勢いを背負って日陰が挿すように敵に襲いかかれば自ずと勝利することができるだろう」と。それで進路を南に取り、紀伊半島をぐるっと回って伊勢あたりから大和を目指そうとしたのだ。日向から難波まで航海を続けてきた海洋族である神武船団が難波から少し大回りして伊勢を目指すのはそれほどおかしな話とは思わない。ただし、船団は熊野を目指したのではなく、あくまで伊勢を目指した。それがたまたまの暴風雨で途中の熊野に上陸せざるを得なかったのだ。神や鬼の存在を信じ、神話を創り出した古代人の思考や行動を現代人の「合理性」で計るのは得策ではないと考える。したがって、書紀の記述をその通りに解することに大きな支障があるとは思わない。さらに言えば、もしも熊野上陸が作り話であるなら神武東征にわざわざ熊野を登場させる理由がよくわからない。太陽を背にして戦うために迂回したのであるから伊勢まで到達させればいい。そうなっていないのは神武一行が熊野から大和に入ったのが史実に基づく話であったからにほかならない。
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