古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆熊野に上陸

2016年11月11日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 神武は名草に椎根津彦を残してさらに海岸沿いに南進し、紀伊半島を回って狹野(新宮市佐野)を越えて熊野の神邑(みわむら、新宮市三輪崎)に到着。そこで天磐盾(あめのいわたて、新宮市熊野速玉神社の神倉山か)に登り、さらに軍を率いて進んだ。この神倉山には磐座とされるゴトビキ岩を神体とする神倉神社がある。主祭神は天照大神と高倉下命(たかくらじのみこと)となっている。私はここを参拝したことがあり、油断すると転げ落ちそうな急な石段によって祠までは登ることが出来たが、そこに祀られるご神体であるゴトビキ岩はとても登れる岩ではなかった。神武がこの岩に登ったというのは磐座信仰に擬して神武の神性を主張しようとしたのかもしれない。ただ、山の中腹にあるこの大きな岩は沖を行く船からも見えるはずで、航海の目印になっただろうと思う。
 その後、一行はその海域で暴風雨に遭った。神武の兄である稲飯命(いないのみこと)、三毛入野命(みけいりののみこと)は続いて海に入ったという。船団はここで遭難し、二人の兄が命を落とした。本来の目的地は伊勢であったが一行はこの熊野の地で上陸を余儀なくされた。五瀬命を含めて3人の兄を失ったことは神武による大和進攻の困難さを象徴し、相応の犠牲を払ったことを現したかったのだろう。荒坂津(別名を丹敷浦)に上陸した一行はその地の首長である丹敷戸畔(にしきとべ)と一戦を交えて勝利したものの神の毒気で全員が気絶してしまう。この毒気は水銀を精製する時に出る有毒ガスのことで丹敷戸畔はそれを武器として使ったという説もあるが、私は丹敷戸畔との戦いが皆が立ち上がれなくなるほどの激戦であり、全員が倒れるほどの薄氷の勝利であったことを表している、と理解しておきたい。それくらい丹敷戸畔が強敵であったと思われる。
 このとき、高倉下という人物がいて、夢に見たとおりに武甕槌神が天から蔵に下ろした布都御魂の剣を手にとり、臥せっていた神武に献上したところ、神武以下の全員が覚醒したという。この高倉下が何者かは記紀に記されていないが、その高倉下が布都御魂を管理していたということだ。布都御魂の「フツ」は物を断ち切る音を表すことから刀剣を神格化したものと言われており、この布都御魂がさらに神格化(人格化と言ったほうがわかりやすいが)されたのが経津主神と言われている。出雲の国譲りにおいては武甕槌神と経津主神の二人の神が大己貴神(大国主神)に国譲りを迫ったのだが、これは武甕槌神が布都御魂の剣を携えていったと解するのがよいだろう。そして、名草戸畔との戦いで椎根津彦が登場したのと同様に、この丹敷戸畔との戦いで高倉下をヒーローとして登場させたのだろう。高倉下は神武一行が熊野に漂着したときにすでに熊野にいたのではなく、日向出発時点から神武一行に加わっていたメンバーではないだろうか。

 前述の通り、高倉下の出自などについて記紀には何も記されていないが物部氏の氏族伝承とされる「先代旧事本紀」によると、物部氏の祖神である饒速日命の子で尾張連の祖である天香語山命(あめのかごやまのみこと)のまたの名を高倉下命としている。この先代旧事本紀では饒速日命と天火明命(あめのほあかりのみこと)が同一人物ということになっている。また、京都府宮津市にある籠神社の社家である海部氏に伝わる「海部氏勘注系図」では海部氏の始祖の彦火明命の子である天香語山命が大屋津比賣命(おおやつひめのみこと)を娶って高倉下を生んだと記され、先代旧事本紀とは世代がひとつ違っている。一方で書紀では、火明命が尾張連の始祖であること、饒速日命が物部氏の先祖であること、を明らかにしているが二人の関係には触れていない。ただ、高倉下が布都御魂を手にすることになったのは、饒速日命を討とうとする神武の苦境を救うために天照大神と武甕雷神が相談した結果であることから、高倉下が饒速日命、すなわち物部氏の系列に属するとは考えにくい。尾張氏は壬申の乱で天武天皇を支えた最も重要な氏族であったことを考慮すると、ここで高倉下を登場させたのは尾張氏を賞賛する意図があったのではないだろうか。高倉下については、饒速日命すなわち物部氏と関連付けるのではなく、尾張氏との関連で捉えたい。高倉下が管理していた布都御魂がその後に物部氏が祭祀する石上神宮に祀られるようになったのは、神武が饒速日命に勝利して即位して以降の物部・尾張両氏の勢力関係や天皇家における物部氏の扱いなど、様々な要因が重なった結果によるものであったのだろう。書紀には垂仁天皇39年の段に物部氏が石上神宮の神宝を管理するようになった経緯が記されている。

 高倉下が属すると考えられる尾張氏は古代氏族の中でも謎が多いとされる。その本貫地については奈良盆地南部の葛城とする説、愛知の尾張地方とする説などがあるが、私は前者の考えに立ちたい。神武が大和に入って饒速日に勝利したあとに土蜘蛛を討つ場面で「高尾張邑の土蜘蛛を葛の網で捕えて討ったので葛城と名付けた」とある。これは葛城邑がもともと高尾張邑と呼ばれていたことを意味している。さらに、大和に入ってすぐに弟猾(おとうかし)の協力を得て兄猾(えうかし)を討ち、その後に宇陀の高倉山に登って国中を眺めたとき、あちこちに敵がいるので忌々しく思っていると、弟猾が「磯城邑には磯城の八十梟(やそたける)がいて、高尾張邑(或本では葛城邑という)には赤銅の八十梟がいる」と言って作戦を伝えたとある。これも高尾張邑と葛城邑が同一地域であることを意味している。よって、尾張氏はこの高尾張、すなわち葛城を本貫地としていたと考えるのである。先代旧事本紀では高倉下命は天香語山命の別名であるといい、海部氏勘注系図では高倉下は天香語山命の子であるという。いずれが真実かは定かではないが、高倉下と天香語山すなわち天香久山との近しい関係を伝えており、尾張氏は香久山に近いところ、つまり葛城が本貫地であることを表わしているのではないだろうか。
 尾張氏の祖先とされる高倉下が神武と共に日向から大和にやってきて饒速日命に勝利したあと、天香久山にほど近い葛城に定住したものと考える。記紀には高倉下と尾張氏との関係が記されていないが、高倉下の存在は明記されており、その高倉下は神武の一行に入っていたと考えられるので、神武が大和を治めた時に高倉下も大和に定住したと考えることに妥当性があると思う。



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