宇佐を出た神武一行がその次に向かったのは筑紫の岡水門(おかのみなと)である。書紀では「岡水門についた」と記されるだけである。遠賀川の河口近く、福岡県遠賀郡芦屋町に岡湊神社があり古代より良港として栄えた。縄文時代には遠賀川下流域は古遠賀潟と呼ばれ入り江が大きく広がっていたことは不弥国のところで書いた。万葉集にも「天霧らひ日方吹くらし水茎の岡の水門に波立ちわたる(あまぎらひ ひかたふくらし みずくきの おかのみなとに なみたちわたる。空一面に霧がかかり東風が吹いて来るらしい、岡の水門に波が立っている)」と詠まれ、このあたり一帯に水面が広がっていたことがわかる。また、遠賀川の「遠賀」は書紀にある「岡県」「崗之水門」や万葉集の「岡の水門」などが由来と考えられ、「おか」が「おんが」に変化したと考えられている。
古事記によると神武一行は「筑紫の岡田宮に一年とどまった」ことになっており、書紀とは微妙に違いがある。北九州市八幡西区岡田町の黒埼にはこの「岡田宮」とされる「岡田神社」がある。黒崎は洞海湾に近く、洞海(くきのうみ)はかつて東西に広がる遠浅の湾で古遠賀潟によって遠賀川の河口と水路がつながっていた。いずれにしても神武一行は遠賀川河口あたりへやって来たことは間違いない。岡田宮に一年とどまったかどうかは定かではないが明らかに不弥国を目指してきたのであろう。遠賀川をさかのぼった福岡県飯塚市の立岩遺跡周辺にあった不弥国である。
さて、神武はなぜこの不弥国へやってきたのか。不弥国は北九州倭国の東端の国であるが、関門海峡を経て北九州に侵攻してきた神武にとっては東端にある不弥国は北九州倭国への入り口となり、また不弥国が北九州における要衝の地であることは先に見た通りである。さらにこの地は東の投馬国、邪馬台国へ向かう拠点でもある。神武はこの地をどうしても押さえておく必要があった。前線で北九州倭国を破った神武はこの不弥国を統治下においてその勝利を確固たるものにしておきたかっただろう。神武はこの不弥国で北九州倭国との講和条約の締結に臨んだのではないだろうか。太平洋戦争に勝利したアメリカが日本を占領統治したのと同じ状況だ。
こうして北九州倭国を押さえた神武はいよいよ畿内の邪馬台国へ軍を進めることになる。北九州の不弥国を出た神武は再び瀬戸内海にもどり安芸と吉備に寄港している。いずれの地においても記紀ともに戦闘の記述がない。加えて、それぞれで宮を設けて長期間滞在したことが認められる。宇佐と同様に安芸、吉備の地は神武の同盟国であったのだろう。この同盟関係、同族関係については後に触れるが、ひとまず神武東征を先に進めよう。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。
古事記によると神武一行は「筑紫の岡田宮に一年とどまった」ことになっており、書紀とは微妙に違いがある。北九州市八幡西区岡田町の黒埼にはこの「岡田宮」とされる「岡田神社」がある。黒崎は洞海湾に近く、洞海(くきのうみ)はかつて東西に広がる遠浅の湾で古遠賀潟によって遠賀川の河口と水路がつながっていた。いずれにしても神武一行は遠賀川河口あたりへやって来たことは間違いない。岡田宮に一年とどまったかどうかは定かではないが明らかに不弥国を目指してきたのであろう。遠賀川をさかのぼった福岡県飯塚市の立岩遺跡周辺にあった不弥国である。
さて、神武はなぜこの不弥国へやってきたのか。不弥国は北九州倭国の東端の国であるが、関門海峡を経て北九州に侵攻してきた神武にとっては東端にある不弥国は北九州倭国への入り口となり、また不弥国が北九州における要衝の地であることは先に見た通りである。さらにこの地は東の投馬国、邪馬台国へ向かう拠点でもある。神武はこの地をどうしても押さえておく必要があった。前線で北九州倭国を破った神武はこの不弥国を統治下においてその勝利を確固たるものにしておきたかっただろう。神武はこの不弥国で北九州倭国との講和条約の締結に臨んだのではないだろうか。太平洋戦争に勝利したアメリカが日本を占領統治したのと同じ状況だ。
こうして北九州倭国を押さえた神武はいよいよ畿内の邪馬台国へ軍を進めることになる。北九州の不弥国を出た神武は再び瀬戸内海にもどり安芸と吉備に寄港している。いずれの地においても記紀ともに戦闘の記述がない。加えて、それぞれで宮を設けて長期間滞在したことが認められる。宇佐と同様に安芸、吉備の地は神武の同盟国であったのだろう。この同盟関係、同族関係については後に触れるが、ひとまず神武東征を先に進めよう。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。