葛城地方を広範囲にとらえると葛城・金剛連山の東側一帯、おおむね現在の奈良県北葛城郡、香芝市、葛城市、大和高田市、御所市を合わせた範囲になるが、葛城氏の本拠と考えられる地域は奈良盆地南西の最深部にあたる葛城市、御所市の一帯である。西へは葛城山と金剛山の間の水越峠を越えると河内に通じ、南へは風の森峠を越えて紀ノ川に出て、川を下れば大阪湾を経て瀬戸内海へ、紀ノ川を上れば吉野へ、さらに吉野から伊勢や熊野にも通じる交通の要衝である。葛城川から大和川を経て河内、難波へ出るルートもある。
古代の奈良盆地には湖(仮に奈良湖と呼ぶ)があったとされている。周辺の山々から流入する水が溜まった巨大な盆地湖があったと言うのだ。奈良盆地は比較的平坦な盆地であり、現在は初瀬川、富雄川、飛鳥川、高田川など、枝分かれた150余の小河川が張り巡らされており、そのどれもがやがては大和川に合流し、亀の瀬と言われる生駒山系と葛城・金剛山系の切れ目から河内平野に流れ込んでいる。亀の瀬は200万年前の二上火山の噴火に伴う地形変化でできた裂け目で、これによって奈良湖の水が流れ出すことになった。さらに縄文後期から弥生時代にかけて地底の隆起や大和川からの流出増などにより水位が下がり続け、やがては干上がって消滅してしまったと言われている。
奈良盆地に見られる縄文遺跡は例外なく標高45m以上の微高地に検出されており、それより低いところでは見つかっていない。そして稲作農耕を主体とする弥生時代になってからの遺跡は標高40mでも見つかるようになる。この事実は、縄文後期から弥生時代にかけて徐々に奈良湖の水位が下がり、湖畔の湿地帯が肥沃で稲作に適した土地になっていき、弥生人が定住し始めたことの証拠であると言われる。このようにして豊葦原瑞穂国の風景が生まれた。
葛城氏の本貫である現在の葛城市や御所市の盆地部は標高が70mから100mで南から北へなだらかに下るほぼ平坦な土地であり、奈良湖の影響を受けない地域であった。したがって奈良盆地においては早くから人が住み始めたと考えられ、縄文時代後期から弥生時代前期にかけての重要な遺跡がいくつも見つかっている。
■秋津遺跡
秋津遺跡は御所市大字條・池之内にある遺跡で、京奈和自動車道建設に伴う一連の発掘調査で古墳時代前期の大型建物や、それを取り囲む方形区画施設群が検出され、さらにその最下層の縄文時代晩期の層から流路と樹根、土器や石器、土製品(土偶)等がまとまって見つかり、水辺利用に伴う遺物の廃棄箇所も確認された。さらに驚くことに、この流路南岸付近で翡翠製の管玉が単独で出土した。この管玉は両端に平坦面があり、胴部の径がそれより大きい中ぶくれの柱状で、長さが3.84cm、幅2.03cm、厚さ1.55cm 、重さは 21.84g となっている。縄文時代の管玉は前期に出現するが、盛んに製作されるのは後期から晩期にかけてのことで、日本全国に出土例があるが、長さ 2cm 前後、直径 1cm 前後のものが多く、長さが3cm以上になる例は縄文時代晩期に限れば極めて少ない。現在まで周辺に縄文時代晩期の集落の発見はないが、流路岸辺の遺物の量が少なくないことから、この玉の持ち主が生活を営んだ集落は、近隣に未発見のまま残されている可能性が高いと考えられる。以上は橿原考古学研究所発表資料を参考に整理したが、縄文晩期にすでに有力者がいた可能性が高いということは、同時にまとまった集団がいたということをも物語っている。このことを間接的に裏付けるのが次の中西遺跡である。
■中西遺跡
中西遺跡は前述の秋津遺跡の南西に広がる弥生時代前期の水田跡である。畦によって4m×3mほどの小さな区画に仕切られた水田が約850枚、広さは2万平米を上回り、日本最大規模の水田跡遺跡となる。これほど大規模な水田が開発されたということは、水田の開発と運営という一大事業を指揮する統率者の存在と、高い技術力と労働力を備えた集団の存在が想定できる。あわせて、ここから収穫される大量の米を消費する人々がいたことも想定される。前述の通り、残念ながらその集団の居住跡は発見されていないが、秋津遺跡の翡翠製菅玉から想定される有力者とあわせて考えると、この葛城には縄文晩期から弥生前期にはすでに有力者が統率する大きな集団が生活していたことがほぼ確実といえる。
奈良湖の水位が下がって水辺に葦が茂るようになり、湖畔に近いところに大規模な水田を設けて水を張って田植えをする。水と共に生きる人々が鴨の姿に似て、この地に暮らす一族をいつしか鴨族と呼ぶようになったのだろうか。さらに想像を進めると、神武天皇から八咫烏、すなわち賀茂建角身命に与えられた論功行賞はこの一帯の土地だったのではないか。そのことは八咫烏がこの地で鴨族の首長となったことを意味する。
■鴨都波遺跡
秋津遺跡・中西遺跡から少し離れるが2キロほど北には鴨都波神社があり、先に見たとおり、神社周辺には弥生時代前期から古墳時代後期にかけての集落遺跡が広がり、その出土物からみて早くから稲作が行なわれていたことが想定されている。秋津遺跡、中西遺跡との関係は明らかではないが先に想定した集団の一部が居住した村であった可能性が高い。同時に遺跡西側において弥生時代中期の方形周溝墓2基、弥生時代終末期の土壙、古墳時代前期(4世紀)の古墳2基・木棺墓5基、古墳時代中期の木棺墓が検出された。時代の経過に伴って継続的に墓が形成されており、この地域の有力者の墓域であることが確認できる。なかでも4世紀中頃の築造と見られる一辺20m弱の方墳である鴨都波1号墳からは三角縁神獣鏡4面、鉄剣、鉄刀、翡翠製の勾玉など豊富な副葬品が出土し、この墓の主の権力の大きさを物語っており、同時に中西遺跡の南にある5世紀初頭の築造で、記紀に登場する葛城襲津彦(そつひこ)の墓とも言われる宮山古墳とのつながりをも想起させる。加えて、翡翠製品の出土は秋津遺跡との関連も考えられる。
遺跡の上に乗っかる形で鴨都波神社があることから、この集落に居住していたのが鴨一族であり、先の墓域は鴨一族の代々の長の墓域だったと考えられる。鴨族はこの集落に居住し、中西遺跡を含む一帯の水田で稲作を行った。鴨族の首長は次第に富を蓄えて4世紀中頃に鴨都波1号墳を築造するに至り、さらにこの鴨族の首長が葛城氏の祖となって5世紀に宮山古墳を築造するに至った、と考えるのは飛躍が過ぎるだろうか。鴨都波神社は鴨一族がその祖先を祀る神社であり、葛城氏の祖先を祀る神社でもある。すなわち、祭神である事代主神は鴨氏の祖先神であり葛城氏の祖先神でもある、と考えたい。一族が葛城氏と鴨氏に分かれ、その鴨氏の一部が京都の山城へ移動、この葛城の地に残った人々がこの神社を守り続けてきたのである。ここに祀られる事代主神とはどんな神だったのだろうか。
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古代の奈良盆地には湖(仮に奈良湖と呼ぶ)があったとされている。周辺の山々から流入する水が溜まった巨大な盆地湖があったと言うのだ。奈良盆地は比較的平坦な盆地であり、現在は初瀬川、富雄川、飛鳥川、高田川など、枝分かれた150余の小河川が張り巡らされており、そのどれもがやがては大和川に合流し、亀の瀬と言われる生駒山系と葛城・金剛山系の切れ目から河内平野に流れ込んでいる。亀の瀬は200万年前の二上火山の噴火に伴う地形変化でできた裂け目で、これによって奈良湖の水が流れ出すことになった。さらに縄文後期から弥生時代にかけて地底の隆起や大和川からの流出増などにより水位が下がり続け、やがては干上がって消滅してしまったと言われている。
奈良盆地に見られる縄文遺跡は例外なく標高45m以上の微高地に検出されており、それより低いところでは見つかっていない。そして稲作農耕を主体とする弥生時代になってからの遺跡は標高40mでも見つかるようになる。この事実は、縄文後期から弥生時代にかけて徐々に奈良湖の水位が下がり、湖畔の湿地帯が肥沃で稲作に適した土地になっていき、弥生人が定住し始めたことの証拠であると言われる。このようにして豊葦原瑞穂国の風景が生まれた。
葛城氏の本貫である現在の葛城市や御所市の盆地部は標高が70mから100mで南から北へなだらかに下るほぼ平坦な土地であり、奈良湖の影響を受けない地域であった。したがって奈良盆地においては早くから人が住み始めたと考えられ、縄文時代後期から弥生時代前期にかけての重要な遺跡がいくつも見つかっている。
■秋津遺跡
秋津遺跡は御所市大字條・池之内にある遺跡で、京奈和自動車道建設に伴う一連の発掘調査で古墳時代前期の大型建物や、それを取り囲む方形区画施設群が検出され、さらにその最下層の縄文時代晩期の層から流路と樹根、土器や石器、土製品(土偶)等がまとまって見つかり、水辺利用に伴う遺物の廃棄箇所も確認された。さらに驚くことに、この流路南岸付近で翡翠製の管玉が単独で出土した。この管玉は両端に平坦面があり、胴部の径がそれより大きい中ぶくれの柱状で、長さが3.84cm、幅2.03cm、厚さ1.55cm 、重さは 21.84g となっている。縄文時代の管玉は前期に出現するが、盛んに製作されるのは後期から晩期にかけてのことで、日本全国に出土例があるが、長さ 2cm 前後、直径 1cm 前後のものが多く、長さが3cm以上になる例は縄文時代晩期に限れば極めて少ない。現在まで周辺に縄文時代晩期の集落の発見はないが、流路岸辺の遺物の量が少なくないことから、この玉の持ち主が生活を営んだ集落は、近隣に未発見のまま残されている可能性が高いと考えられる。以上は橿原考古学研究所発表資料を参考に整理したが、縄文晩期にすでに有力者がいた可能性が高いということは、同時にまとまった集団がいたということをも物語っている。このことを間接的に裏付けるのが次の中西遺跡である。
■中西遺跡
中西遺跡は前述の秋津遺跡の南西に広がる弥生時代前期の水田跡である。畦によって4m×3mほどの小さな区画に仕切られた水田が約850枚、広さは2万平米を上回り、日本最大規模の水田跡遺跡となる。これほど大規模な水田が開発されたということは、水田の開発と運営という一大事業を指揮する統率者の存在と、高い技術力と労働力を備えた集団の存在が想定できる。あわせて、ここから収穫される大量の米を消費する人々がいたことも想定される。前述の通り、残念ながらその集団の居住跡は発見されていないが、秋津遺跡の翡翠製菅玉から想定される有力者とあわせて考えると、この葛城には縄文晩期から弥生前期にはすでに有力者が統率する大きな集団が生活していたことがほぼ確実といえる。
奈良湖の水位が下がって水辺に葦が茂るようになり、湖畔に近いところに大規模な水田を設けて水を張って田植えをする。水と共に生きる人々が鴨の姿に似て、この地に暮らす一族をいつしか鴨族と呼ぶようになったのだろうか。さらに想像を進めると、神武天皇から八咫烏、すなわち賀茂建角身命に与えられた論功行賞はこの一帯の土地だったのではないか。そのことは八咫烏がこの地で鴨族の首長となったことを意味する。
■鴨都波遺跡
秋津遺跡・中西遺跡から少し離れるが2キロほど北には鴨都波神社があり、先に見たとおり、神社周辺には弥生時代前期から古墳時代後期にかけての集落遺跡が広がり、その出土物からみて早くから稲作が行なわれていたことが想定されている。秋津遺跡、中西遺跡との関係は明らかではないが先に想定した集団の一部が居住した村であった可能性が高い。同時に遺跡西側において弥生時代中期の方形周溝墓2基、弥生時代終末期の土壙、古墳時代前期(4世紀)の古墳2基・木棺墓5基、古墳時代中期の木棺墓が検出された。時代の経過に伴って継続的に墓が形成されており、この地域の有力者の墓域であることが確認できる。なかでも4世紀中頃の築造と見られる一辺20m弱の方墳である鴨都波1号墳からは三角縁神獣鏡4面、鉄剣、鉄刀、翡翠製の勾玉など豊富な副葬品が出土し、この墓の主の権力の大きさを物語っており、同時に中西遺跡の南にある5世紀初頭の築造で、記紀に登場する葛城襲津彦(そつひこ)の墓とも言われる宮山古墳とのつながりをも想起させる。加えて、翡翠製品の出土は秋津遺跡との関連も考えられる。
遺跡の上に乗っかる形で鴨都波神社があることから、この集落に居住していたのが鴨一族であり、先の墓域は鴨一族の代々の長の墓域だったと考えられる。鴨族はこの集落に居住し、中西遺跡を含む一帯の水田で稲作を行った。鴨族の首長は次第に富を蓄えて4世紀中頃に鴨都波1号墳を築造するに至り、さらにこの鴨族の首長が葛城氏の祖となって5世紀に宮山古墳を築造するに至った、と考えるのは飛躍が過ぎるだろうか。鴨都波神社は鴨一族がその祖先を祀る神社であり、葛城氏の祖先を祀る神社でもある。すなわち、祭神である事代主神は鴨氏の祖先神であり葛城氏の祖先神でもある、と考えたい。一族が葛城氏と鴨氏に分かれ、その鴨氏の一部が京都の山城へ移動、この葛城の地に残った人々がこの神社を守り続けてきたのである。ここに祀られる事代主神とはどんな神だったのだろうか。
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