阿蘇山の北部、現在の大分県・福岡県・熊本県の県境あたりが狗奴国と倭国の戦場であったことは既に書いた通りであるが、宇佐はこの前線に供給する鉄製兵器を製造する拠点ではなかったろうか。宇佐は精錬から鉄器製造までの一貫プロセスを持つ地域であったと考えられる。宇佐のすぐ隣の国東半島東岸沿いの砂浜は砂鉄の宝庫であった。昭和29年に中沢次郎氏・丸山修氏が行ったこのあたりの砂鉄鉱床についての調査報告書によると、調査した昭和29年時点においても12ケ所の砂鉄鉱山が稼動していたという。国東半島はその中心にある両子火山の噴出物で形成されており、大半が安山岩である。この安山岩は磁鉄鉱を含んでおり、四方に流れ落ちる急峻な河川により岩が砕かれ砂鉄となって下流に流れていく。結果、河口付近の砂浜に堆積した浜砂鉄、波に打ち上げられた打上砂鉄が豊富に蓄積されていく。先に薩摩半島や大隅半島で見たのと同じ状況が実はここ国東半島にもあった。
大分空港のすぐ北、国東町重藤にある重藤遺跡ではその製造時期が何と紀元前695±40年とされるとてつもなく古い鉄剣が出土した。さらに国東半島一帯には2万トンとも3万トンとも言われる鉄滓があるという。鉄剣の製造年代の真偽はさておき、古代より精錬製鉄が行われていた証左となろう。また、大分空港を挟んで南側には宇佐神宮に祭られている比売大神の前住地とされる奈多八幡宮が隣接しており、宇佐と鉄のつながりを類推させる事実として興味深い。
この重藤遺跡の北側、国東港わきに流れ込む田深川の下流域右岸にある安国寺遺跡は弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡で、低湿地帯であったために保存状態がよく、鍬や田下駄などの木製農具や高床倉庫あるいは住居の建築部材、杭や矢板、300以上の柱穴、炭化米、植物の種や実、花粉などが出土したことから「西の登呂」と呼ばれてきた。二重口縁壺に特殊な櫛目模様を付けたこの地方独特の土器も見つかり、遺跡名にちなんで安国寺式土器と命名された。稲作を行っていたであろうこの集落は製鉄に従事した人々が暮らす村だったのではないだろうか。
宇佐と接する国東半島はこのように一大製鉄産地であった。書紀によると、日向を出た神武一行はこの宇佐の地で宇佐国造の祖である菟狭津彦(うさつひこ)・菟狭津媛(うさつひめ)の歓待を受けた。菟狭津彦・菟狭津媛は古くから宇佐に住む土豪と考えられ、書紀には神武一行を歓待する為に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を宇佐川の川上に設けたとなっている。この宇佐川は現在の駅館川とされており、その下流右岸、宇佐神宮の北西3キロほど行ったところの台地上に川部・高森古墳群があり、前方後円墳6基、円墳120基など3世紀から6世紀にかけての古墳が密集している。これは九州では西都原古墳群につぐ規模である。なかでも全長57.5mの赤塚古墳は3世紀末の築造で九州最古の前方後円墳とも言われ、三角縁神獣鏡4面、三角縁神竜虎鏡1面、管玉3個、鉄刀片3個、鉄斧1個などが出土し、この地の有力者の墓であることは間違いない。また、他の5つの前方後円墳は以下のように時の経過とともに築造されている。免ケ平古墳(4世紀、全長50m)、福勝寺古墳(5世紀、全長80m)、車坂古墳(5世紀、全長60m)、角房古墳(5世紀、全長46m)、鶴見古墳(6世紀、全長31m)という具合だ。このことから、これら6基の前方後円墳は有力者一族の代々の墓が継続的に築造されたと考えられる。そしてその有力者一族とは宇佐国造の祖である宇佐族、いわゆる宇佐氏であろう。この川部・高森古墳群から駅館川を上っていくと右岸には環濠集落である東上田遺跡、野口遺跡、上原遺跡、小向野遺跡、左岸には別府遺跡と弥生時代の遺跡が密集している。宇佐一族を長として栄えた一帯であったと考えられる。また、この一帯と目と鼻の先のところに現在に至るまで絶大な力を保持し続ける宇佐神宮(宇佐八幡宮)がある。
ともかく、古代の宇佐はそういう地であった。果たして神武は何の目的でここに立ち寄ったのだろうか。書紀の記述には戦闘の記述はなく、逆に首長が嬉々として一行を歓迎している様子が描かれている。また、浜砂鉄を原料とする製鉄一貫プロセスの技術はまさに南九州のそれと同じである。宇佐の地は神武の勢力範囲、同盟国ではなかったろうか。北九州倭国との戦闘に兵器や兵士を供給する兵站基地としての役割を果たしたのではなかろうか。宇佐から国境地帯に出陣すれば背後から挟み撃ちにすることが可能となる。宇佐の存在が国境戦における狗奴国の勝利を確定的にしたとも言えるだろう。神武は宇佐の首長をねぎらうため、さらには宇佐との関係性をより強固なものにするためにこの地を訪問したのだろう。
書紀には「菟狭津媛を神武の家臣である天種子命(あめのたねこのみこと)に娶らせた。 天種子命は中臣氏の遠い祖先である」と書かれている。乙巳の変の立役者である中臣鎌足や書紀が完成する頃に絶大な力を持っていた藤原不比等につながる中臣氏の祖を登場させたということは、その後の政権と宇佐との関係性を予見させ、さらには中臣氏が祭祀を司る氏族であったことがその後の宇佐神宮の繁栄につながったということを想像させるに十分な効果があろう。
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大分空港のすぐ北、国東町重藤にある重藤遺跡ではその製造時期が何と紀元前695±40年とされるとてつもなく古い鉄剣が出土した。さらに国東半島一帯には2万トンとも3万トンとも言われる鉄滓があるという。鉄剣の製造年代の真偽はさておき、古代より精錬製鉄が行われていた証左となろう。また、大分空港を挟んで南側には宇佐神宮に祭られている比売大神の前住地とされる奈多八幡宮が隣接しており、宇佐と鉄のつながりを類推させる事実として興味深い。
この重藤遺跡の北側、国東港わきに流れ込む田深川の下流域右岸にある安国寺遺跡は弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡で、低湿地帯であったために保存状態がよく、鍬や田下駄などの木製農具や高床倉庫あるいは住居の建築部材、杭や矢板、300以上の柱穴、炭化米、植物の種や実、花粉などが出土したことから「西の登呂」と呼ばれてきた。二重口縁壺に特殊な櫛目模様を付けたこの地方独特の土器も見つかり、遺跡名にちなんで安国寺式土器と命名された。稲作を行っていたであろうこの集落は製鉄に従事した人々が暮らす村だったのではないだろうか。
宇佐と接する国東半島はこのように一大製鉄産地であった。書紀によると、日向を出た神武一行はこの宇佐の地で宇佐国造の祖である菟狭津彦(うさつひこ)・菟狭津媛(うさつひめ)の歓待を受けた。菟狭津彦・菟狭津媛は古くから宇佐に住む土豪と考えられ、書紀には神武一行を歓待する為に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を宇佐川の川上に設けたとなっている。この宇佐川は現在の駅館川とされており、その下流右岸、宇佐神宮の北西3キロほど行ったところの台地上に川部・高森古墳群があり、前方後円墳6基、円墳120基など3世紀から6世紀にかけての古墳が密集している。これは九州では西都原古墳群につぐ規模である。なかでも全長57.5mの赤塚古墳は3世紀末の築造で九州最古の前方後円墳とも言われ、三角縁神獣鏡4面、三角縁神竜虎鏡1面、管玉3個、鉄刀片3個、鉄斧1個などが出土し、この地の有力者の墓であることは間違いない。また、他の5つの前方後円墳は以下のように時の経過とともに築造されている。免ケ平古墳(4世紀、全長50m)、福勝寺古墳(5世紀、全長80m)、車坂古墳(5世紀、全長60m)、角房古墳(5世紀、全長46m)、鶴見古墳(6世紀、全長31m)という具合だ。このことから、これら6基の前方後円墳は有力者一族の代々の墓が継続的に築造されたと考えられる。そしてその有力者一族とは宇佐国造の祖である宇佐族、いわゆる宇佐氏であろう。この川部・高森古墳群から駅館川を上っていくと右岸には環濠集落である東上田遺跡、野口遺跡、上原遺跡、小向野遺跡、左岸には別府遺跡と弥生時代の遺跡が密集している。宇佐一族を長として栄えた一帯であったと考えられる。また、この一帯と目と鼻の先のところに現在に至るまで絶大な力を保持し続ける宇佐神宮(宇佐八幡宮)がある。
ともかく、古代の宇佐はそういう地であった。果たして神武は何の目的でここに立ち寄ったのだろうか。書紀の記述には戦闘の記述はなく、逆に首長が嬉々として一行を歓迎している様子が描かれている。また、浜砂鉄を原料とする製鉄一貫プロセスの技術はまさに南九州のそれと同じである。宇佐の地は神武の勢力範囲、同盟国ではなかったろうか。北九州倭国との戦闘に兵器や兵士を供給する兵站基地としての役割を果たしたのではなかろうか。宇佐から国境地帯に出陣すれば背後から挟み撃ちにすることが可能となる。宇佐の存在が国境戦における狗奴国の勝利を確定的にしたとも言えるだろう。神武は宇佐の首長をねぎらうため、さらには宇佐との関係性をより強固なものにするためにこの地を訪問したのだろう。
書紀には「菟狭津媛を神武の家臣である天種子命(あめのたねこのみこと)に娶らせた。 天種子命は中臣氏の遠い祖先である」と書かれている。乙巳の変の立役者である中臣鎌足や書紀が完成する頃に絶大な力を持っていた藤原不比等につながる中臣氏の祖を登場させたということは、その後の政権と宇佐との関係性を予見させ、さらには中臣氏が祭祀を司る氏族であったことがその後の宇佐神宮の繁栄につながったということを想像させるに十分な効果があろう。
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