古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆吉備の一族

2016年11月09日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 考古学の視点から吉備を考えたときに最も興味深いのは、岡山県倉敷市矢部の丘陵上にある弥生時代の双方中円型の「楯築墳丘墓」である。全長が72m、中円部の直径が43mで2世紀後半の築造と考えられ、当時としては日本最大の規模であったとされている。この双方中円墓はその後の前方後円墳の原型とも言われている。また、その形と規模だけでなく埋葬方法や出土物がたいへん特徴的である。木槨を丁寧に設け、底一面に水銀朱が敷き詰められた木棺をその木槨内に納めていること、通常は木棺内に納める副葬品である玉類が木棺の蓋の上に置かれていた可能性があること、埋葬後に木槨の上部にあたる墳丘頂上で火を使った何らかの儀礼が行われた形跡があることなど、独自の葬送儀礼を持っていたようだ。また出土物も興味深い。ベンガラによる丹塗りが施された吉備特有の土器といわれる特殊器台や特殊壺、木槨の腐敗による崩壊とともに埋葬空間に崩れ落ちたと思われる円礫堆から見つかった表面に弧帯文が描かれた石の破片、同じく円礫堆に混じって見つかった土製品の破片や鉄器類などである。順に見ていく。
 まず特殊器台・特殊壺であるが、これは弥生後期中頃から主に備中南部で製作が始まり、備前、美作、備後へと広がっていった。さらには出雲や畿内の箸墓などでも出ているが、その胎土の分析からこれらは備中南部で作られたものが人の手によって運ばれたことがわかっている。そしてこの土器がその後の円筒埴輪につながっていったとも言われている。畿内から全国に広がったと言われる前方後円墳とそこに並べられる埴輪のいずれもがその源流を吉備に求めることができるのである。さらに興味深いのは、前方後円墳の波及とともにこの特殊な土器は作られなくなるのである。
 次に弧帯文石。楯築墳丘墓の発掘で見つかったのは破壊された数百の破片群であるが、これらを接合して復元してみると全面に弧帯文が刻まれており、その上面部と思われる破片が黒色化して火に焼かれた痕跡を残していた。また、これと同じもので大型の弧帯文石が大正時代の初め頃まで墳丘上にあった楯築神社に代々伝世し、亀石と呼ばれるご神体として安置されていた。現在はこの遺跡のそばの収蔵庫に祀られており「伝世弧帯文石」と呼ばれる。この弧帯文は中央部に三角突起のある円穴の周りにS字状の帯が描かれており、この円穴と帯の図柄のセットが石の周囲を覆っている。後述する百間川原尾島遺跡出土の土器の文様と合わせて隼人の盾に描かれたS字文様に通じるものを感じる。
 
 このほか吉備では、弥生時代後期の津寺遺跡から黥面土偶と呼ばれる顔面に入墨のような線刻を施した土製品が、また、鹿田遺跡、倉敷市上東遺跡、総社市一倉遺跡などでは黥面を描いた土器が出土している。さらに百間川原尾島遺跡からは弥生時代後期の肩の部分にS字状の渦文4個があざやかに描かれた長頸壺が出土している。このS字状文様は龍を簡略化した文様と言われているが、私は先の隼人の盾や弧帯文も同様で、潮の流れ、あるいは渦を表したものではないかと考える。これらはこのあたりに住んでいた人々が海洋系民族であることを示唆しており、同じく海洋民族である隼人につながっていると思われる。吉備の地は瀬戸内海の真ん中にあり、瀬戸内海航路や山陽道などを押さえることができる要衝の地である。また、吉備は古代より製塩が盛んで、その生産量は自らの消費量をはるかに超えるものであったと言われている。さらには讃岐地方で産出される石器に用いたサヌカイトは四国を出て全国各地で見つかっている。吉備の塩も讃岐のサヌカイトも瀬戸内海を中心にその流通を一手に担ったのが吉備の一族ではなかったろうか。彼らは隼人の流れを汲む海洋民族であり、海洋流通を握った氏族であったと言えよう。だからこそ神武一行はこの地に3年間も滞在して畿内攻略の準備を整えることが出来たのだ。そして、吉備の首長が眠るのが楯築墳丘墓ではないだろうか。

  (吉備出土の土器)


  (隼人の盾)


  (接合された弧帯文石)


 ここで思い出すのが大三島に祀られている大山祇神である。神武一行はこの海域を何の問題も無く通過している。もしも大三島を含めて付近の島々や海岸沿いに敵国があったとしたら、何らかの戦闘の形跡が語られたであろうが、そうはなっていない。大山祇は先述の通り瀬戸内海航路を押さえていた海洋一族の首長であろうが、吉備氏と同様に神武すなわち隼人族に近しい一族であった。大山祇の子である鹿葦津姫(別名が木花開耶姫または神吾田津姫)は神武の祖母であったのだから。
 また、時代は少し下るが5世紀前葉に吉備平野に築かれた造山古墳の前方部にあった長持形石棺が熊本県宇土の鴨籠古墳と同様式であることも吉備と隼人の地である中南部九州とのつながりを想起させる。

 このように吉備は隼人とつながる海洋族であり神武の同盟国であったと考えているが、吉備独自の土器である特殊器台において大和纏向あるいは出雲との関連性が伺えるのはどうしてであろうか。瀬戸内海のど真ん中、中国地方のど真ん中、西日本のど真ん中に位置する吉備はしたたかな国であった。



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