熊野から紀伊半島を縦断して大和を目指すことになった神武一行の先行きを案じた天照大神は八咫烏を使わせて道案内をさせることにした。そして一行は大伴氏の祖先である日臣命(ひのおみのみこと)が大来目(おおくめ)を率いて、烏の向かう所を探して追いかけ、ついに菟田下県(うだのしもつこおり)に到達することができた。ここでは八咫烏と日臣命が新たに登場する。まず日臣命から見ていこう。
日臣命は天忍日命(あめのおしひのみこと)とされ、書紀第九段の一書(第4)における天孫降臨の場面では来目部(久米部)の遠祖である天クシ津大来目(あめのくしつのおおくめ)を率いて、矢を入れる筒である天磐靫を負い、防具として稜威高鞆(いつのたかとも)を腕につけ、手には天梔弓(あめのはじゆみ)と天羽羽矢(あめのははや)を持ち、音の出る鏃である八目鳴鏑(やつめのかぶら)も持ち、頭槌劍(かぶつちのつるぎ)を腰に差し、天孫の前に立って先導して地上に降りた、とある。天孫降臨と神武東征のいずれにおいても来目部を率いて先導役を果たす重要人物である。神武はこの先導役を評価して日臣を道臣(みちのおみ)と改名した。書紀においては日臣命、すなわち道臣命は大伴氏の遠祖であり、天忍日命は大伴連の遠祖となっている。特に天孫降臨における天忍日命は完全武装の姿で先導役を果たしていることから大伴氏は軍事担当であることがわかる。そして大伴氏が率いる部隊が久米一族である。道臣命は大和に入ってからも菟田県(現在の宇陀)の首長である兄猾を討ち、国見丘で来目部を率いて八十梟帥の残党を討っている。次に八咫烏について詳しく見ていく。
書記において八咫烏はこの熊野山中での先導役として登場した後、2ケ所に記される。2度目の登場は磯城彦を攻めようとする場面で、神武は兄磯城(えしき)に使者を送ったが返答がなかったので次に八咫烏を遣わした。兄磯城は八咫烏の要請にも応えず弓を射た。八咫烏はいったん退却して弟磯城(おとしき)のところに向かい、弟磯城を味方につけることに成功した。弟磯城は兄の反抗の企みを暴露したが神武軍は尚も話し合いを続けようとして弟磯城を説得役に任じた。ところが、兄磯城は弟磯城の説得にも応じなかったため、ついに神武軍は戦いを決意し、椎根津彦の作戦により勝利を治めることとなった。余談であるが、このときに弟磯城に続いて説得役の控えとして兄倉下(えくらじ)、弟倉下(おとくらじ)の2名が選任されている。私は「倉下」を名に持つこの2名は高倉下の一族、すなわち尾張氏の系列ではなかったかと考えている。
八咫烏の3度目の登場は、神武が即位後に東征の論功行賞を行った場面。道臣命、大来目、椎根津彦、弟猾、弟磯城、剣根(つるぎね)らとともに八咫烏も賞に入ったとあるが、他の者と違って賞の内容が記されていない。また、八咫烏の子孫が葛野主殿県主(かどののとのもりあがたぬし)であるとしてその正体が明かされているものの、書紀ではそれ以上のことは語られていない。
平安時代初期に編纂された古代の氏族名鑑である「新撰姓氏録」には、山城国神別の項目に鴨県主について「賀茂県主と同祖である」として「神魂命(かむたまのみこと、神皇産霊尊のこと)の孫である鴨建津之身命(かもたけつぬみのみこと、賀茂建角身命あるいは鴨建角身命とも呼ばれる)は神武東征の際、神日本磐余彦天皇(神武天皇)が大和に向かう道中で、山があまりに険しくて道に迷ったとき八咫烏に化身して空を高く飛んで導いた。天皇はその功を喜んで特に厚く褒賞した。天の八咫烏の称はこれが始まりである。」と記している。八咫烏、すなわち賀茂建角身命は賀茂県主および鴨県主の先祖であるという。とすると、葛野主殿県主は賀茂県主あるいは鴨県主のことであると考えて差し支えないだろう。
さらに「山城国風土記」逸文によると、八咫烏は先導役として神武に仕えた後、大和から山城を経て現在の賀茂に移ったとある。京都には上賀茂神社と下鴨神社があるが、前者には賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)が、後者は賀茂建角身命と玉依媛命が祀られている。玉依媛命には、川で用を足しているときに上流から流れてきた丹塗矢を床において眠っていたときに懐妊し、神の子である賀茂別雷命を生んだという逸話がある。下鴨神社は賀茂別雷命の母である玉依姫命と玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀るために「賀茂御祖神社」とも呼ばれている。
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日臣命は天忍日命(あめのおしひのみこと)とされ、書紀第九段の一書(第4)における天孫降臨の場面では来目部(久米部)の遠祖である天クシ津大来目(あめのくしつのおおくめ)を率いて、矢を入れる筒である天磐靫を負い、防具として稜威高鞆(いつのたかとも)を腕につけ、手には天梔弓(あめのはじゆみ)と天羽羽矢(あめのははや)を持ち、音の出る鏃である八目鳴鏑(やつめのかぶら)も持ち、頭槌劍(かぶつちのつるぎ)を腰に差し、天孫の前に立って先導して地上に降りた、とある。天孫降臨と神武東征のいずれにおいても来目部を率いて先導役を果たす重要人物である。神武はこの先導役を評価して日臣を道臣(みちのおみ)と改名した。書紀においては日臣命、すなわち道臣命は大伴氏の遠祖であり、天忍日命は大伴連の遠祖となっている。特に天孫降臨における天忍日命は完全武装の姿で先導役を果たしていることから大伴氏は軍事担当であることがわかる。そして大伴氏が率いる部隊が久米一族である。道臣命は大和に入ってからも菟田県(現在の宇陀)の首長である兄猾を討ち、国見丘で来目部を率いて八十梟帥の残党を討っている。次に八咫烏について詳しく見ていく。
書記において八咫烏はこの熊野山中での先導役として登場した後、2ケ所に記される。2度目の登場は磯城彦を攻めようとする場面で、神武は兄磯城(えしき)に使者を送ったが返答がなかったので次に八咫烏を遣わした。兄磯城は八咫烏の要請にも応えず弓を射た。八咫烏はいったん退却して弟磯城(おとしき)のところに向かい、弟磯城を味方につけることに成功した。弟磯城は兄の反抗の企みを暴露したが神武軍は尚も話し合いを続けようとして弟磯城を説得役に任じた。ところが、兄磯城は弟磯城の説得にも応じなかったため、ついに神武軍は戦いを決意し、椎根津彦の作戦により勝利を治めることとなった。余談であるが、このときに弟磯城に続いて説得役の控えとして兄倉下(えくらじ)、弟倉下(おとくらじ)の2名が選任されている。私は「倉下」を名に持つこの2名は高倉下の一族、すなわち尾張氏の系列ではなかったかと考えている。
八咫烏の3度目の登場は、神武が即位後に東征の論功行賞を行った場面。道臣命、大来目、椎根津彦、弟猾、弟磯城、剣根(つるぎね)らとともに八咫烏も賞に入ったとあるが、他の者と違って賞の内容が記されていない。また、八咫烏の子孫が葛野主殿県主(かどののとのもりあがたぬし)であるとしてその正体が明かされているものの、書紀ではそれ以上のことは語られていない。
平安時代初期に編纂された古代の氏族名鑑である「新撰姓氏録」には、山城国神別の項目に鴨県主について「賀茂県主と同祖である」として「神魂命(かむたまのみこと、神皇産霊尊のこと)の孫である鴨建津之身命(かもたけつぬみのみこと、賀茂建角身命あるいは鴨建角身命とも呼ばれる)は神武東征の際、神日本磐余彦天皇(神武天皇)が大和に向かう道中で、山があまりに険しくて道に迷ったとき八咫烏に化身して空を高く飛んで導いた。天皇はその功を喜んで特に厚く褒賞した。天の八咫烏の称はこれが始まりである。」と記している。八咫烏、すなわち賀茂建角身命は賀茂県主および鴨県主の先祖であるという。とすると、葛野主殿県主は賀茂県主あるいは鴨県主のことであると考えて差し支えないだろう。
さらに「山城国風土記」逸文によると、八咫烏は先導役として神武に仕えた後、大和から山城を経て現在の賀茂に移ったとある。京都には上賀茂神社と下鴨神社があるが、前者には賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)が、後者は賀茂建角身命と玉依媛命が祀られている。玉依媛命には、川で用を足しているときに上流から流れてきた丹塗矢を床において眠っていたときに懐妊し、神の子である賀茂別雷命を生んだという逸話がある。下鴨神社は賀茂別雷命の母である玉依姫命と玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀るために「賀茂御祖神社」とも呼ばれている。
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