古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

熊野本宮大社(熊野実地踏査ツアー No.1)

2016年11月15日 | 実地踏査・古代史旅
2015年2月11~12日、いつもの仲間三人で神武東征と徐福伝説を訪ねる熊野ツアーを敢行。大阪から奈良県五条市を抜けて国道168号線を南下。途中、日本一高い吊り橋「谷瀬の吊り橋」にも立ち寄り、まずは熊野本宮大社を参拝。和歌山県田辺市本宮町本宮にある熊野本宮大社は熊野三山(本宮・速玉・那智各大社)の中心、全国に3000社以上ある熊野神社の総本宮で、主祭神は家都美御子大神。この神は素戔嗚尊とされている。

神社公式サイトにある由緒・歴史は以下の通り。
熊野連山の三千六百峰を形成する、果無山脈。その山間を縫うが如く流れ、太平洋へと続く熊野川は、まさに熊野の大動脈です。この熊野川の中枢に、古代より熊野巫大神の鎮座されるお宮が、熊野本宮大社です。熊野本宮大社は過去「熊野坐神社」と号し、熊野の神と言えば本宮のことを表していたものと推測されます。
熊野坐大神の御鎮座の年代は文献に明白ではありませんが、神武東征以前には既に御鎮座になったと云われており、社殿は615年、第十代崇神天皇の時代に創建されたと『皇年代略記』や『神社縁起』に記されています。奈良朝の頃より仏教を取り入れ、平安朝以後は仏化により「熊野権現」と称し、神々に仏名を配するようになりました。熊野本宮大社は上・中・下社の三社から成るため、熊野三所権現と呼ばれています。また、十二殿に御祭神が鎮座ますことから、熊野十二社権現とも仰がれています。
平安当時、宇多法皇に始まる歴代法皇・上皇・女院の熊野御幸は百余度に及びました。幾度かの御幸に供奉した藤原定家が『明月記』の中で「感涙禁じ難し」と記しており 、困難な道を歩き御神前に詣でたことが、いかにありがたく、いかに御神徳が高かったかを窺い知ることができます。

1184年、第21代熊野別当に就任したのは、本宮・田辺を拠点とする田辺別当家の湛増でした。源平二氏の争乱に際し、湛増率いる熊野水軍が源氏側についたことにより、勝敗が決したと云われています。

※熊野別当・・・熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の統轄にあたった役職

南北朝から室町時代にかけては、皇族や貴族などの上流階級に代わり、武士や庶民の間に熊野信仰が広がりました。身分の貴賤や老若男女を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さゆえ、熊野には大勢の人々が競って参詣し「蟻の熊野詣」と呼ばれる現象を起こすまでに至りました。

なお残念なことではありますが、明治二十二年の未曽有の大水害により社殿のうち中・下社が倒壊し、現在地に上四杜のみお祀りすることとなりました。他八社は石祠として旧社地大斎原お祀りし、現在に至っております。


大鳥居。八咫烏の幟が印象的。私のプロフィールの写真はこのときに撮ったもの。


神仏習合の名残り、熊野大権現とある扁額。


拝殿。


本宮大社を参拝した後、国道を渡って熊野川へ出て、伊邪那美命の荒御魂がお祀りされている産田社へ。



その後、日本一の大鳥居のある大斎原へ。もとは熊野川の中洲になっていた場所で上記の歴史にある通り、明治22年まではここに本殿があった。




熊野本宮をあとにして熊野川沿いにさらに南下、このあとは熊野速玉大社、神倉神社、阿須賀神社、徐福公園と盛りだくさんの1日となった。順に紹介していきます。



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◆尾張氏と丹波

2016年11月13日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 まず、丹波氏あるいは丹波国造について確認してみる。世界大百科事典第二版にて丹波氏を見ると「丹波国を本拠とした古代の大族。丹波地方は畿内と南で接し、丹波道が早くから開けたため、大和政権とのつながりも古くから成立したらしく《日本書紀》開化紀に丹波之大県主の名が見え、崇神紀にも丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)を四道将軍の一人として丹波に遣わす話がある。また垂仁紀は、道主の5人の娘が宮廷に入り、その一人皇后日葉酢姫(ひばすひめ)の子を景行天皇とするなど、伝承は天皇系譜との親密な関係を物語る。丹波氏の成立について、《国造本紀》は丹波国造を成務朝にあてている」となっている。
 この「国造本紀」が収録された先代旧事本紀は偽書であるとの考えがあるものの、巻五の「天孫本紀」の尾張氏系譜や巻十の「国造本紀」については史料価値があるとする意見もあるので参考にしたい。
 その国造本紀によると、成務天皇のときに尾張国造と同祖の建稲種命(たけいなだねのみこと)の4世孫にあたる大倉岐命(おおくらきのみこと)を丹波国造に定めたとなっている。そして同じく先代旧事本紀の天孫本紀には、その建稲種命の子の尾綱根命(おづなねのみこと)のときに尾治連の姓を賜ったとある。それ以降、尾治氏(尾張氏)が続く。また国造本紀には、成務朝のときに天火明命の十三世孫の小止与命(おとよのみこと)を尾張国造に定めたともある。小止与命は建稲種命の父にあたる。これらのことから、国造本紀と天孫本紀によれば丹波氏と尾張氏は祖を同じくすることが分かる。天孫本紀に従ってこの系譜をさかのぼると、天火明命の三世孫に天忍人命(あめのおしひとのみこと)、天忍男命(あめのおしおのみこと)、忍日女命(おしひめのみこと)の名が見られ、このなかの天忍男命の子である四世孫として瀛津世襲や世襲足媛が登場する。ここで天孫本紀と記紀がつながる。そして先に見たとおり、記紀ではこの瀛津世襲を尾張連の祖としているのである。系譜を整理すると次のようになる。
 
  
 
 さらに丹後の海部氏の系譜が記された海部氏勘注系図を見ると、そこには天孫本紀にある尾張氏の系譜と一致する部分が見い出せる。たとえば、始祖の天火明命、その子である天香語山命、さらにその子である天村雲命(あめのむらくものみこと)までの直系三世代の系譜が前述の天孫本紀と一致する。そして勘注系図では天村雲命の子、すなわち直系の三世孫として海部氏につながっていく倭宿禰命(やまとのすくねのみこと)を記すが、傍系の系譜として天忍人命、天忍男命、忍日女命の三人の名を記している。この三人は前述の天孫本紀尾張氏系譜に登場する三人と一致すると考えてよいだろう。天忍人命は葛木出石姫と、天忍男命は葛木加奈良知姫と婚姻関係を持ってそれぞれ系譜をつないでいる。つまり勘注系図によると、尾張氏は葛木(葛城)氏と姻戚関係にあったということだ。
 先に書いたように、私は尾張氏の本貫地を葛城の高尾張邑と考えている。したがって、尾張氏と葛城氏がつながっているのは当然であると考えるのであるが、その尾張氏が丹波氏(丹波国造)とも同系の関係にあったことは前述の通りである。尾張氏、葛城氏、丹波氏の三氏に関係性が見出されるのであるが、それについて次のように考えたい。まず、神武東征に随行してきた高倉下が高尾張邑に定着して尾張氏の礎を築いた。その後裔が葛城氏と婚姻によってつながった。そして尾張氏の傍系一族が丹波へ移って丹波国造となった。ではなぜ、葛城の尾張氏が丹波へ移ったのか。それは丹波が天孫族と同じ中国江南由来の海洋一族の国であった、すなわち神武王朝と同系一族であったことに加えて、饒速日命の故郷が丹波(丹後)であったことから、神武王朝は丹波国と同盟関係を築いていたと考える。尾張氏は葛城と丹波を頻繁に往来していたのだろう。世界大百科事典にも「丹波地方は畿内と南で接し、丹波道が早くから開けたため、大和政権とのつながりも古くから成立した」とある。なお、葛城氏については神武東征の終盤で触れるのでそちらに回したい。

 論証する材料に乏しい為、推測の域を出ないのであるが、それにしても「海部氏勘注系図」に丹波氏(丹波国造)が登場するのは良しとして、尾張氏や葛城氏(葛木氏)が登場するのは何故だろうか。海部氏、尾張氏、葛城氏に何らかの関係があったと考えられるのではないか。そしてここで意味を持ってくるのが気にしたい点の2つ目、尾張氏と大海氏の関係である。傍系尾張氏が葛城から丹後に移った理由は神武と同じ中国江南系の国であり、饒速日命の国であり、同盟関係にあったからと考えたが、そもそも饒速日命が丹後から大和に遷るときに随行した一族に大海氏がいたのではないだろうか。そして饒速日命が神武に服従したとき、大海氏も神武に仕えることになり、尾張氏と同じ葛城に定住することとなったのではないか。さらに言うと、この大海氏は海部氏と同族であり、大海氏こそが饒速日命であったのかもしれない。古代から中世を経て絶やすことなく系譜をつなぎながら一貫して歴史を見てきた海部氏がこれらの経過をすべて自らの系図に取り込んで出来上がったのが勘注系図である。次に尾張氏と大海氏について考える。



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◆尾張氏の考察

2016年11月12日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 尾張氏についてもう少し詳しく見ておきたい。尾張氏の祖について記紀は以下のように記している。(各人物の読み方についてはまとめて下段に記す。)

 ●日本書紀
 ①火明命は尾張連の遠祖である(第9段)
 ②天忍穂耳尊の子である天火明命の子の天香山は尾張連
  の遠祖である(第9段一書第6)
 ③孝安天皇の母である世襲足媛の姉の瀛津世襲は尾張連
  の遠祖である(孝安紀)
 ●古事記
 ①神武武天皇の子である神八井耳命は尾張丹羽臣等の祖
  である
 ②孝昭天皇の后である余曽多本毘売命の姉の奥津余曽は
  尾張連の祖である
 ③崇神天皇の妃の意富阿麻比売は尾張連の祖である
 ④孝元天皇の子である比古布都押之信命が尾張連等の祖
  である意富那毘の妹の葛城の高千那毘売と結婚して生
  まれた子が味師内宿禰である

  天香山(あめのかぐやま)
  世襲足媛(よそたらしひめ)
  瀛津世襲(おきつよそ)
  神八井耳命(かむやいみみのみこと)
  余曽多本毘売命(よそたらひめのみこと)
  意富阿麻比売(おおあまひめ)
  比古布都押之信命(ふこふつおしのまことのみこと)
  意富那毘(おおなび)
  味師内宿禰(うましうちのすくね)

 まず古事記の④において、尾張連の祖である意富那毘の妹、高千那毘売が葛城にいたことがわかり、尾張氏が葛城の氏族であることが想定される。また、尾張氏の女性が皇族に入ったこともわかる。次に、書紀の①と②は同じことを言っており、火明命が尾張氏の祖先であること、すなわち尾張氏が天孫族の後裔であることを表している。書紀の③と古事記の②も同じことを言っており、瀛津世襲が尾張連の祖先であることがわかる。ただし、瀛津世襲なる人物、あるいはその後裔の話はこれ以降の記紀に登場しないので、あくまで尾張氏が古くから天皇家の外戚であったことを主張するためだけの記述であると考えられる。以上のことから少なくとも尾張氏は天孫族の後裔であり、天皇家外戚という重要な氏族であったことがわかる。
 そのうえで私は古事記の①に「尾張丹羽臣」の名が見えることに注目したい。通説では愛知県に拠点をもつ丹羽(にわ)氏を指すとされているが、丹羽=丹波と考えて「にわ」ではなく「たにわ」あるいは「たんば」と読んで、尾張氏と丹波の関係を表していると考えたい。また、古事記の③にある「意富阿麻比売」の存在も重要だ。書紀においても崇神天皇の妃として「尾張大海媛」の名で登場するが、この大海媛が尾張氏の祖先であるという。次に尾張氏と丹波の関係、尾張氏と大海氏の関係を考えてみたい。



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◆熊野に上陸

2016年11月11日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 神武は名草に椎根津彦を残してさらに海岸沿いに南進し、紀伊半島を回って狹野(新宮市佐野)を越えて熊野の神邑(みわむら、新宮市三輪崎)に到着。そこで天磐盾(あめのいわたて、新宮市熊野速玉神社の神倉山か)に登り、さらに軍を率いて進んだ。この神倉山には磐座とされるゴトビキ岩を神体とする神倉神社がある。主祭神は天照大神と高倉下命(たかくらじのみこと)となっている。私はここを参拝したことがあり、油断すると転げ落ちそうな急な石段によって祠までは登ることが出来たが、そこに祀られるご神体であるゴトビキ岩はとても登れる岩ではなかった。神武がこの岩に登ったというのは磐座信仰に擬して神武の神性を主張しようとしたのかもしれない。ただ、山の中腹にあるこの大きな岩は沖を行く船からも見えるはずで、航海の目印になっただろうと思う。
 その後、一行はその海域で暴風雨に遭った。神武の兄である稲飯命(いないのみこと)、三毛入野命(みけいりののみこと)は続いて海に入ったという。船団はここで遭難し、二人の兄が命を落とした。本来の目的地は伊勢であったが一行はこの熊野の地で上陸を余儀なくされた。五瀬命を含めて3人の兄を失ったことは神武による大和進攻の困難さを象徴し、相応の犠牲を払ったことを現したかったのだろう。荒坂津(別名を丹敷浦)に上陸した一行はその地の首長である丹敷戸畔(にしきとべ)と一戦を交えて勝利したものの神の毒気で全員が気絶してしまう。この毒気は水銀を精製する時に出る有毒ガスのことで丹敷戸畔はそれを武器として使ったという説もあるが、私は丹敷戸畔との戦いが皆が立ち上がれなくなるほどの激戦であり、全員が倒れるほどの薄氷の勝利であったことを表している、と理解しておきたい。それくらい丹敷戸畔が強敵であったと思われる。
 このとき、高倉下という人物がいて、夢に見たとおりに武甕槌神が天から蔵に下ろした布都御魂の剣を手にとり、臥せっていた神武に献上したところ、神武以下の全員が覚醒したという。この高倉下が何者かは記紀に記されていないが、その高倉下が布都御魂を管理していたということだ。布都御魂の「フツ」は物を断ち切る音を表すことから刀剣を神格化したものと言われており、この布都御魂がさらに神格化(人格化と言ったほうがわかりやすいが)されたのが経津主神と言われている。出雲の国譲りにおいては武甕槌神と経津主神の二人の神が大己貴神(大国主神)に国譲りを迫ったのだが、これは武甕槌神が布都御魂の剣を携えていったと解するのがよいだろう。そして、名草戸畔との戦いで椎根津彦が登場したのと同様に、この丹敷戸畔との戦いで高倉下をヒーローとして登場させたのだろう。高倉下は神武一行が熊野に漂着したときにすでに熊野にいたのではなく、日向出発時点から神武一行に加わっていたメンバーではないだろうか。

 前述の通り、高倉下の出自などについて記紀には何も記されていないが物部氏の氏族伝承とされる「先代旧事本紀」によると、物部氏の祖神である饒速日命の子で尾張連の祖である天香語山命(あめのかごやまのみこと)のまたの名を高倉下命としている。この先代旧事本紀では饒速日命と天火明命(あめのほあかりのみこと)が同一人物ということになっている。また、京都府宮津市にある籠神社の社家である海部氏に伝わる「海部氏勘注系図」では海部氏の始祖の彦火明命の子である天香語山命が大屋津比賣命(おおやつひめのみこと)を娶って高倉下を生んだと記され、先代旧事本紀とは世代がひとつ違っている。一方で書紀では、火明命が尾張連の始祖であること、饒速日命が物部氏の先祖であること、を明らかにしているが二人の関係には触れていない。ただ、高倉下が布都御魂を手にすることになったのは、饒速日命を討とうとする神武の苦境を救うために天照大神と武甕雷神が相談した結果であることから、高倉下が饒速日命、すなわち物部氏の系列に属するとは考えにくい。尾張氏は壬申の乱で天武天皇を支えた最も重要な氏族であったことを考慮すると、ここで高倉下を登場させたのは尾張氏を賞賛する意図があったのではないだろうか。高倉下については、饒速日命すなわち物部氏と関連付けるのではなく、尾張氏との関連で捉えたい。高倉下が管理していた布都御魂がその後に物部氏が祭祀する石上神宮に祀られるようになったのは、神武が饒速日命に勝利して即位して以降の物部・尾張両氏の勢力関係や天皇家における物部氏の扱いなど、様々な要因が重なった結果によるものであったのだろう。書紀には垂仁天皇39年の段に物部氏が石上神宮の神宝を管理するようになった経緯が記されている。

 高倉下が属すると考えられる尾張氏は古代氏族の中でも謎が多いとされる。その本貫地については奈良盆地南部の葛城とする説、愛知の尾張地方とする説などがあるが、私は前者の考えに立ちたい。神武が大和に入って饒速日に勝利したあとに土蜘蛛を討つ場面で「高尾張邑の土蜘蛛を葛の網で捕えて討ったので葛城と名付けた」とある。これは葛城邑がもともと高尾張邑と呼ばれていたことを意味している。さらに、大和に入ってすぐに弟猾(おとうかし)の協力を得て兄猾(えうかし)を討ち、その後に宇陀の高倉山に登って国中を眺めたとき、あちこちに敵がいるので忌々しく思っていると、弟猾が「磯城邑には磯城の八十梟(やそたける)がいて、高尾張邑(或本では葛城邑という)には赤銅の八十梟がいる」と言って作戦を伝えたとある。これも高尾張邑と葛城邑が同一地域であることを意味している。よって、尾張氏はこの高尾張、すなわち葛城を本貫地としていたと考えるのである。先代旧事本紀では高倉下命は天香語山命の別名であるといい、海部氏勘注系図では高倉下は天香語山命の子であるという。いずれが真実かは定かではないが、高倉下と天香語山すなわち天香久山との近しい関係を伝えており、尾張氏は香久山に近いところ、つまり葛城が本貫地であることを表わしているのではないだろうか。
 尾張氏の祖先とされる高倉下が神武と共に日向から大和にやってきて饒速日命に勝利したあと、天香久山にほど近い葛城に定住したものと考える。記紀には高倉下と尾張氏との関係が記されていないが、高倉下の存在は明記されており、その高倉下は神武の一行に入っていたと考えられるので、神武が大和を治めた時に高倉下も大和に定住したと考えることに妥当性があると思う。



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◆難波から熊野へ

2016年11月10日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 吉備を出て難波に入った神武は河内国草香邑靑雲の白肩之津で上陸し、龍田から大和に入ろうと南へ進んだが、道が狭く険しくて進めないのでいったん引き返し、生駒越えで入ることにした。すると孔舍衞坂(くさえのさか、現在の近鉄線石切駅あたりか)で長髄彦(ながすねひこ)に待ち伏せされて意図せず戦うことになった。神武一行にとっては東征開始後、初めての戦闘である。不意打ちを喰った格好になり、残念ながら神武の兄の五瀬命が大きな傷を負ったため、上陸地点まで退却せざるを得なかった。この長髄彦は大和に降臨した饒速日命(にぎはやひのみこと)に仕える土着の豪族だったと思われる。初戦を制して神武の大和侵入を阻み、その後も神武を苦しめるが、最後は神武に従おうとする饒速日命に斬られることになる。饒速日命、長髄彦については後に詳しく述べることにして話を戻そう。
 神武は「日の神の子孫が日に向かって戦うのは天の道に逆らうことだ。日の神の勢いを背負って日陰が挿すように敵に襲いかかれば自ずと勝利することができるだろう。」と考えた。西からではなく東に回って太陽を背にして戦おうと船を進めて進路を南に取った。紀伊半島をぐるりと回って東の伊勢から大和を目指そうとしたのだろう。その途中、五瀬命は傷が悪化し、それが原因で亡くなったので紀伊国の竃山(かまやま)に葬られた。五瀬命の墓は和歌山市和田の竈山神社後背にある古墳「竈山墓」に比定されている。「紀伊続風土記」では墓の造営後直ちに神霊を奉斎したために墓と祠が一ケ所にあるとしている。
 その後、一行は竈山からすぐ近くの名草邑(和歌山市の名草山あたり)で、その地の首長と思われる名草戸畔(なくさとべ)という女首長を討った。この名草戸畔は地元では名草姫と呼ばれているが、その死後に代わって紀伊を治めたのが紀氏とも言われている。紀氏は自らの系図で名草戸畔を遠縁に位置づけることでその正当性を主張した。

 私は名草戸畔の死後にこの地を治めたのは神武に随行してきた人物であったと考える。この地は紀ノ川の河口にあたり、大和から大阪湾、瀬戸内海へ出る水運交通の要衝の地である。神武はこの地を自ら統治するために腹心の部下を残した。その人物が名草戸畔の後継者などこの地の有力者たちと関係を構築しながら統治に成功し、やがて紀氏となった。書紀によると、第8代孝元天皇の血を継ぐ屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)が景行天皇3年に紀直の遠祖である菟道彦(うじひこ、古事記では「宇豆比古」)の娘である影媛を娶って武内宿禰を生み、その武内宿禰が蘇我氏、平群氏、紀氏などの祖となった、とされている。この菟道彦こそが神武が残した部下であり、神武が日向を発って宇佐に着く前に速水之門で道案内として一行に加えた珍彦(うずひこ)、すなわち椎根津彦(しいねつひこ)ではなかったか。彼は紀ノ川河口の名草の地を押さえた後、紀ノ川を遡り、その後熊野を経て吉野に入った神武と合流、磯城の首長である兄磯城(えしき)との戦いに大きな貢献を果たした。そしてこれらの活躍が認められて神武即位後に倭国造に任じられた。紀直の先祖である椎根津彦が倭国造になったのである。

 このあと、神武一行は熊野を目指すことになるが、神武は本当に熊野へ行ったのだろうか。大和まで目と鼻の先まで来ているにも関わらず、そこから紀伊半島をぐるっと回って本当に熊野まで行ったのだろうか。わざわざ熊野を経由することが合理的ではないとして実際は紀ノ川を遡ったのだとする考えもあるが、私は熊野へ行ったと考えたい。難波で五瀬命が長髄彦に討たれたときに神武はこう言った。「日の神の子孫が日に向かって戦うのは天の道に逆らうことだ。日の神の勢いを背負って日陰が挿すように敵に襲いかかれば自ずと勝利することができるだろう」と。それで進路を南に取り、紀伊半島をぐるっと回って伊勢あたりから大和を目指そうとしたのだ。日向から難波まで航海を続けてきた海洋族である神武船団が難波から少し大回りして伊勢を目指すのはそれほどおかしな話とは思わない。ただし、船団は熊野を目指したのではなく、あくまで伊勢を目指した。それがたまたまの暴風雨で途中の熊野に上陸せざるを得なかったのだ。神や鬼の存在を信じ、神話を創り出した古代人の思考や行動を現代人の「合理性」で計るのは得策ではないと考える。したがって、書紀の記述をその通りに解することに大きな支障があるとは思わない。さらに言えば、もしも熊野上陸が作り話であるなら神武東征にわざわざ熊野を登場させる理由がよくわからない。太陽を背にして戦うために迂回したのであるから伊勢まで到達させればいい。そうなっていないのは神武一行が熊野から大和に入ったのが史実に基づく話であったからにほかならない。


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◆吉備の一族

2016年11月09日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 考古学の視点から吉備を考えたときに最も興味深いのは、岡山県倉敷市矢部の丘陵上にある弥生時代の双方中円型の「楯築墳丘墓」である。全長が72m、中円部の直径が43mで2世紀後半の築造と考えられ、当時としては日本最大の規模であったとされている。この双方中円墓はその後の前方後円墳の原型とも言われている。また、その形と規模だけでなく埋葬方法や出土物がたいへん特徴的である。木槨を丁寧に設け、底一面に水銀朱が敷き詰められた木棺をその木槨内に納めていること、通常は木棺内に納める副葬品である玉類が木棺の蓋の上に置かれていた可能性があること、埋葬後に木槨の上部にあたる墳丘頂上で火を使った何らかの儀礼が行われた形跡があることなど、独自の葬送儀礼を持っていたようだ。また出土物も興味深い。ベンガラによる丹塗りが施された吉備特有の土器といわれる特殊器台や特殊壺、木槨の腐敗による崩壊とともに埋葬空間に崩れ落ちたと思われる円礫堆から見つかった表面に弧帯文が描かれた石の破片、同じく円礫堆に混じって見つかった土製品の破片や鉄器類などである。順に見ていく。
 まず特殊器台・特殊壺であるが、これは弥生後期中頃から主に備中南部で製作が始まり、備前、美作、備後へと広がっていった。さらには出雲や畿内の箸墓などでも出ているが、その胎土の分析からこれらは備中南部で作られたものが人の手によって運ばれたことがわかっている。そしてこの土器がその後の円筒埴輪につながっていったとも言われている。畿内から全国に広がったと言われる前方後円墳とそこに並べられる埴輪のいずれもがその源流を吉備に求めることができるのである。さらに興味深いのは、前方後円墳の波及とともにこの特殊な土器は作られなくなるのである。
 次に弧帯文石。楯築墳丘墓の発掘で見つかったのは破壊された数百の破片群であるが、これらを接合して復元してみると全面に弧帯文が刻まれており、その上面部と思われる破片が黒色化して火に焼かれた痕跡を残していた。また、これと同じもので大型の弧帯文石が大正時代の初め頃まで墳丘上にあった楯築神社に代々伝世し、亀石と呼ばれるご神体として安置されていた。現在はこの遺跡のそばの収蔵庫に祀られており「伝世弧帯文石」と呼ばれる。この弧帯文は中央部に三角突起のある円穴の周りにS字状の帯が描かれており、この円穴と帯の図柄のセットが石の周囲を覆っている。後述する百間川原尾島遺跡出土の土器の文様と合わせて隼人の盾に描かれたS字文様に通じるものを感じる。
 
 このほか吉備では、弥生時代後期の津寺遺跡から黥面土偶と呼ばれる顔面に入墨のような線刻を施した土製品が、また、鹿田遺跡、倉敷市上東遺跡、総社市一倉遺跡などでは黥面を描いた土器が出土している。さらに百間川原尾島遺跡からは弥生時代後期の肩の部分にS字状の渦文4個があざやかに描かれた長頸壺が出土している。このS字状文様は龍を簡略化した文様と言われているが、私は先の隼人の盾や弧帯文も同様で、潮の流れ、あるいは渦を表したものではないかと考える。これらはこのあたりに住んでいた人々が海洋系民族であることを示唆しており、同じく海洋民族である隼人につながっていると思われる。吉備の地は瀬戸内海の真ん中にあり、瀬戸内海航路や山陽道などを押さえることができる要衝の地である。また、吉備は古代より製塩が盛んで、その生産量は自らの消費量をはるかに超えるものであったと言われている。さらには讃岐地方で産出される石器に用いたサヌカイトは四国を出て全国各地で見つかっている。吉備の塩も讃岐のサヌカイトも瀬戸内海を中心にその流通を一手に担ったのが吉備の一族ではなかったろうか。彼らは隼人の流れを汲む海洋民族であり、海洋流通を握った氏族であったと言えよう。だからこそ神武一行はこの地に3年間も滞在して畿内攻略の準備を整えることが出来たのだ。そして、吉備の首長が眠るのが楯築墳丘墓ではないだろうか。

  (吉備出土の土器)


  (隼人の盾)


  (接合された弧帯文石)


 ここで思い出すのが大三島に祀られている大山祇神である。神武一行はこの海域を何の問題も無く通過している。もしも大三島を含めて付近の島々や海岸沿いに敵国があったとしたら、何らかの戦闘の形跡が語られたであろうが、そうはなっていない。大山祇は先述の通り瀬戸内海航路を押さえていた海洋一族の首長であろうが、吉備氏と同様に神武すなわち隼人族に近しい一族であった。大山祇の子である鹿葦津姫(別名が木花開耶姫または神吾田津姫)は神武の祖母であったのだから。
 また、時代は少し下るが5世紀前葉に吉備平野に築かれた造山古墳の前方部にあった長持形石棺が熊本県宇土の鴨籠古墳と同様式であることも吉備と隼人の地である中南部九州とのつながりを想起させる。

 このように吉備は隼人とつながる海洋族であり神武の同盟国であったと考えているが、吉備独自の土器である特殊器台において大和纏向あるいは出雲との関連性が伺えるのはどうしてであろうか。瀬戸内海のど真ん中、中国地方のど真ん中、西日本のど真ん中に位置する吉備はしたたかな国であった。



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◆第四の寄港地「吉備の高島宮」

2016年11月08日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 安芸のあとは吉備に寄港する。目的は書紀に記載されていることを素直に読んで理解するのがよいだろう。「吉備国に入り、行館(=仮宮)を作って滞在した。これを高島宮という。3年滞在している間に船を揃え、兵食を備え、ひとたび兵を挙げて天下を平定しよう」とある。滞在期間は古事記では8年となっている。3年あるいは8年という長期滞在は船を造るためだ。すでに出来上がった船を調達するのではなく、木を伐採するところから始める造船に3年を費やしたということだ。ここまでの長旅による修理も必要であったろう。武器も砂鉄の精錬から始めただろう。兵士も大幅に増員したであろう。水・食料も大量に必要となる。いよいよこれから畿内へ侵攻、ここから先は同盟国に頼れない。この吉備で万全の準備をしておくことが必要であった。
 さて、神武が滞在した高島宮とはどこにあったのだろうか。一般的には現在の岡山市南区宮浦、児島湾に浮かぶ高島と言われている。ここには高島宮とされる跡地に創祀されたという高島神社もある。また、島の南嶺の頂上に磐座や古墳時代の祭祀跡があり、古代において神聖な島であったことがわかる。しかし、前述のような兵站を整えるにはあまりに小さな島である。また、高島神社の対岸にある児島も当時は文字通り島であった。大量の木材の伐採、砂鉄の採取、造船や製鉄のための広大な敷地の確保などを考えると、本土(現在の岡山市や倉敷市あたり)に拠点があったと考えざるを得ない。船団が逗留したことから海岸近く(ただし島ではない)か大きな河川沿いであろう。さらに伐採後の木材を運搬する必要があることを考えると大きな河川の存在は必須となる。尾道市から岡山市にかけて高島宮跡と伝えられる地は数多くあるが、先の条件を満たし、なおかつその後の吉備の発展を考えたときに最も相応しい候補地は、JR岡山駅から北東10キロ足らずの龍ノ口山の南西麓にある高島神社であろう。当時の海岸線はこの近くまで来ていたであろうし、鳥取県との県境あたりを源流とする旭川がすぐそばを流れている。ここから西へ20キロ足らずで備前国一之宮である吉備津彦神社と備中国一之宮の吉備津神社、さらには弥生後期の重要遺跡である楯築遺跡、そして築造の時代は少し下るが、全長360m、全国第4位の規模を誇る前方後円墳である造山古墳、同じく第9位の作山古墳も目と鼻の先にある。同盟国である吉備の首長が拠点を構えるこの地に立ち寄り、彼の協力の下で畿内侵攻の準備を整えた、と考えたい。
 ところでここでひとつ気が付いたことがある。神武は日向を出た後、宇佐、筑紫、安芸、吉備と立ち寄ってきたが、書紀によると宇佐・安芸・吉備においてはそれぞれ一柱騰宮・埃宮・高島宮という具合に宮を設けている。もともとあったのか寄港時に新たに作ったのかは別にして。一方で筑紫においては宮を設けたことが書かれていない(古事記では岡田宮と記されているが)。このことは宮を設けた宇佐、安芸、吉備が神武と関係のある国であり、筑紫はそうではなかったことの傍証になるのではないだろうか。
 吉備をもう少し詳しく見てみよう。神武東征の後、吉備が書紀に現われるのは第7代孝霊天皇のときである。別名を吉備津彦命とする彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)が孝霊天皇の子として登場し、第10代崇神天皇の時に四道将軍の一人として西道(山陽道)に派遣されて吉備を平定したという。その派遣に際して、第8代孝元天皇の皇子である武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)とその妻の吾田媛が謀反を起こしたことが発覚し、彦五十狭芹彦命が吾田媛の軍を、北陸に派遣された大彦が武埴安彦命を討った。この話には2つの興味がわく。ひとつ目は、なぜ崇神は神武王朝の同盟国であるはずの吉備を討ったのかということ、もうひとつは謀反を起こした武埴安彦命の妻の名に吾田がついているということ。吾田は阿多であり、武埴安彦命は天皇家の出身地である阿多から妻を娶っていたことが伺われる。同盟国を討ち、さらには自身の先祖のお里でもあるはずの阿多の女性とその夫であり第8代孝元天皇の皇子である武埴安彦命を殺害した崇神はやはり神武王朝の後継天皇であったとは考えにくい。
 また書紀によると、同じく孝霊天皇の子であり彦五十狭芹彦命の異母弟である稚武彦命(わかたけひこのみこと)は吉備臣の遠祖とされている。



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厳島神社

2016年11月07日 | 神社・仏閣
2015年11月3日、道後温泉を出発、しまなみ海道で瀬戸内海を渡り、広島県廿日市にある安芸国一の宮、厳島神社へ。公式表記は「嚴島神社」、祭神は宗像三女神である市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の三柱。

以下は神社ホームページにある由緒。

当社の御祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)と素盞鳴尊(すさのおのみこと)が高天原(たかまのはら)で剣玉の御誓(うけい)をされた時に御出現になった神々で、御皇室の安泰や国家鎮護、また海上の守護神として古くから崇信を受けられた。
宮島に御鎮座地を探されるにあたり、この島を治める佐伯鞍職(さえきのくらもと)に神勅が下った。鞍職は大神様が高天原から連れてきた神鴉(ごからす)の先導のもと、御祭神と共に島の浦々を巡り、海水の差し引きする現在地を選んで御社殿を建てたのは、推古天皇御即位の年(593年)であると伝えられる。
その後安芸守となった平清盛(たいらのきよもり)が当社を篤く崇敬し、仁安3年(1168年)に寝殿造の様式を取り入れた御社殿に修造した。清盛の官位が上がるにつれ平家一門のみならず、承安4年(1174年)に、後白河(ごしらかわ)法皇の御幸(ごこう)、治承4年(1180)3月と9月に高倉上皇の御幸(ごこう)があるなど、多くの皇族・貴族が参詣され、都の文化がもたらされた。
当社に対する崇敬は、平家から源氏の世になっても変わることなく、又時代が移り室町時代の足利尊氏や義満、戦国時代の大内家、毛利家などからも崇拝された。



宮島口桟橋からフェリーで対岸の宮島桟橋へ。


普段は海の中にある大鳥居も干潮時はこの通り。


近くで見れば大迫力。


海側から見た扁額と神社側から見た扁額の表記が違うと聞いていたので確認。
海側がこれ。

神社がこれ。


東回廊からの大鳥居。


鏡の池。清水が湧き出ていて、干潮時に現れて手鏡ように見えることからこの名がついたという。


なぜこの地に宗像三女神が祀られるようになったのか、神社ホームページの由緒からはうかがい知れない。日本書紀には神武天皇が東征の際に安芸に立ち寄って埃宮を設けたことが記されていることから安芸は神武の味方集団が居住する地であったと思われる。一方で宗像三女神は出雲の素戔嗚尊とつながる北九州の神、すなわち天照大神からつながる天孫族である神武王朝と敵対する集団の神である。天孫族の味方集団の地に敵集団の神が祀られるのはどうしてだろうか。その違和感からかもしれないが、この神社には何か作為的な信仰を感じてしまった。
今回は諸般の事情で行程に入れなかった磐座のある弥山、安芸の埃宮と考える境外摂社の大元神社。宮島再訪の機会があれば必ず訪れたい。



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古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~
小嶋浩毅
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◆第三の寄港地「安芸の埃宮」

2016年11月06日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 書紀によると岡の水門(不弥国)を出た神武は安芸の埃宮(えのみや)に到着し、しばらく滞在した。埃宮は古事記では多祁理宮(たけりのみや)となっている。広島県安芸郡府中町にある多家神社とされているが、この神社は曰く付きの神社である。主祭神は神武天皇と安芸国の開祖神である安芸津彦命であり、神社の公式サイトなどをもとに由緒を整理すると次のようになる。「記紀に記される多祁理宮あるいは埃宮が後に多家神社となった。平安時代には延喜式に安芸国の名神大社三社の1つとして多家神社の名が記され、伊都岐島神社(厳島神社)、速谷神社とともに全国屈指の大社とあがめられたが、その後、武士の抗争により社運が衰えて歴史上から姿を消した。江戸時代になると松崎八幡別宮境内の『たけい社』が埃宮であるとする南氏子と、安芸国内の神々を合祀した総社であるとする北氏子が激しい論争を展開した。広島県は斡旋に乗り出し、明治4年に松崎八幡と総社とを共に廃止して、別に新たに一社を設けることとした。旧両社の中間地点であり神武天皇の埃宮旧跡の伝承をもつ府中町上宮町の誰曾廼森(たれそのもり)に多家神社を造営し、中央に神武天皇を勧請し、松崎八幡と総社の神体をことごとく相殿に祭って一村の氏神と定めた。松崎八幡の境内には神武天皇が東征時に腰をかけたとされる御腰掛岩があり、神武ゆかりの宮であることを思わせるが、府中町のサイトによると松崎八幡は京都石清水八幡宮の別宮として平安末から鎌倉初めの創建とされている」。このように多家神社はその縁起が曖昧であり、神武がここに宮を置いた事実を素直に認めることができない。

 一方の速谷神社であるが、少し長くなるが神社公式サイトをもとに由緒などを概説すると「主祭神の飽速玉男命は古代、安芸国を開かれた大神で、成務天皇の時代に安芸国造を賜り、広く国土を開拓し、産業の道を進め、交通の便を開き、安芸国の礎をつくり固められた安芸建国の祖神である。歴史は非常に古く、鎮座の年代は明らかではないが創祀千八百年とも言われる。平安時代には中国九州地方では唯一の官幣大社として朝廷から特別に篤い崇敬を受けた。『延喜式神名帳』には『安芸国佐伯郡速谷神社名神大月次新嘗』と記載されて名神大社に列し、国家鎮護の神社として毎年月次祭、祈年祭、新嘗祭の三祭に神祇官の奉幣に預かった。延喜式所載の安芸国三社(速谷神社、厳島神社、多家神社)の中では速谷神社だけがこの殊遇をうけ、安芸・備後国はもとより、山陽道でも最高の社格を誇った。古くは安芸国一之宮であったとされるが、厳島神社が平氏に崇敬されるにつれて当社は厳島神社の摂社に数えられ、安芸国二之宮と称されるようになった。それでも平成の世になってからも天皇は三度、幣饌料を奉納している」ということだ。そして、東広島市西条にある三ツ城古墳は古代安芸地方を治めた阿岐国造の墓に推定されている。神社の由緒、歴史、天皇家による崇敬などを考えるとこちらの方が神武が宮をおいた場所として相応しいように思う。

 さらにもうひとつの厳島神社。ここは宗像三女神が主祭神であり、創建は推古天皇元年(593年)とされる。この地の有力豪族である佐伯鞍職(さひきのくらもと)が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に市杵島姫命を祀る社殿を創建したことに始まるとされ、神武の時代を大きく下ることになり、埃宮には該当しないが、ここには摂社として厳島神社よりも前に創建された大元神社がある。国常立尊、大山祇神、保食神(うけもちのかみ)、さらに厳島神社の初代神主である佐伯鞍職を祀っている。天地開闢の際に出現した最初の神である国常立尊、瓊々杵尊の義父である大山祇神などを祀っていることから神武のゆかりを感じさせる。

 私は、神武が埃宮をおいたのは速谷神社か大元神社であろうと考えるが、いずれの場合であっても神武がこの地に寄ったのは、船・兵士・武器・食料・水などの調達が目的だったのではないだろうか。書紀では3ケ月ほど、古事記では7年もの滞在期間が記されているが、戦闘も無くこれだけの期間を過ごすのはそれ以外の理由を考えにくい。



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◆第二の寄港地「岡水門」

2016年11月05日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 宇佐を出た神武一行がその次に向かったのは筑紫の岡水門(おかのみなと)である。書紀では「岡水門についた」と記されるだけである。遠賀川の河口近く、福岡県遠賀郡芦屋町に岡湊神社があり古代より良港として栄えた。縄文時代には遠賀川下流域は古遠賀潟と呼ばれ入り江が大きく広がっていたことは不弥国のところで書いた。万葉集にも「天霧らひ日方吹くらし水茎の岡の水門に波立ちわたる(あまぎらひ ひかたふくらし みずくきの おかのみなとに なみたちわたる。空一面に霧がかかり東風が吹いて来るらしい、岡の水門に波が立っている)」と詠まれ、このあたり一帯に水面が広がっていたことがわかる。また、遠賀川の「遠賀」は書紀にある「岡県」「崗之水門」や万葉集の「岡の水門」などが由来と考えられ、「おか」が「おんが」に変化したと考えられている。
 古事記によると神武一行は「筑紫の岡田宮に一年とどまった」ことになっており、書紀とは微妙に違いがある。北九州市八幡西区岡田町の黒埼にはこの「岡田宮」とされる「岡田神社」がある。黒崎は洞海湾に近く、洞海(くきのうみ)はかつて東西に広がる遠浅の湾で古遠賀潟によって遠賀川の河口と水路がつながっていた。いずれにしても神武一行は遠賀川河口あたりへやって来たことは間違いない。岡田宮に一年とどまったかどうかは定かではないが明らかに不弥国を目指してきたのであろう。遠賀川をさかのぼった福岡県飯塚市の立岩遺跡周辺にあった不弥国である。
 
 さて、神武はなぜこの不弥国へやってきたのか。不弥国は北九州倭国の東端の国であるが、関門海峡を経て北九州に侵攻してきた神武にとっては東端にある不弥国は北九州倭国への入り口となり、また不弥国が北九州における要衝の地であることは先に見た通りである。さらにこの地は東の投馬国、邪馬台国へ向かう拠点でもある。神武はこの地をどうしても押さえておく必要があった。前線で北九州倭国を破った神武はこの不弥国を統治下においてその勝利を確固たるものにしておきたかっただろう。神武はこの不弥国で北九州倭国との講和条約の締結に臨んだのではないだろうか。太平洋戦争に勝利したアメリカが日本を占領統治したのと同じ状況だ。

 こうして北九州倭国を押さえた神武はいよいよ畿内の邪馬台国へ軍を進めることになる。北九州の不弥国を出た神武は再び瀬戸内海にもどり安芸と吉備に寄港している。いずれの地においても記紀ともに戦闘の記述がない。加えて、それぞれで宮を設けて長期間滞在したことが認められる。宇佐と同様に安芸、吉備の地は神武の同盟国であったのだろう。この同盟関係、同族関係については後に触れるが、ひとまず神武東征を先に進めよう。


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◆宇佐神宮

2016年11月04日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 この宇佐神宮についてもう少し触れておこう。官幣大社で豊前国一之宮、主祭神は一之御殿に八幡大神(応神天皇)、二之御殿に比売大神(玉依姫あるいは宗像三女神といわれている)、三之御殿に神功皇后となっている。全国8万以上の神社の半数ほどを占めるといわれる八幡宮の総本山であり、皇室も伊勢神宮につぐ第二の宗廟として崇敬している。
 宇佐神宮が繁栄を謳歌するのは応神天皇が祀られるようになった以降、特に8世紀に入ってからである。旧記や古伝を集めた八幡宇佐宮託宣集によれば「571年に宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義(おおがのひぎ)が祈ると三才童児となり、『我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂(応神天皇のこと)、護国霊験の大菩薩』と託宣があった」とある。725年に八幡大神を祀る一之御殿が造営され、その後、740年の藤原広嗣の乱の際には官軍の大将軍である大野東人が戦勝を祈願した。また、743年の東大寺大仏建立の際に宮司等が託宣を携えて上京するとともに建立費を支援したことから中央との結びつきを強めた。そして769年の道鏡・和気清麻呂による宇佐八幡宮神託事件では皇位の継承にまで関与するなど、皇室の宗廟として伊勢神宮を凌ぐ程に大いに繁栄した。

 宇佐神宮の東南方向にある御許山の山頂付近に宇佐神宮の奥宮と言われる大元神社があり、3つの巨石が祀られている。御許山は古来、神が降臨する神奈備山として崇敬され、頂上にある巨石を神の降臨地とする磐座信仰が古代宇佐における最初の信仰であったと言われている。ここに新羅系渡来氏族である辛嶋氏が比売大神信仰を持ち込み、中央から派遣された大神氏が八幡信仰を興し、その後の発展へつながっていくこととなった。神武東征の際には素朴な信仰の地であった宇佐が、書紀が編纂される頃には国家権力を左右するまでの地位になっていたのは大変興味深いところである。いや、だからこそ書紀に宇佐を登場させたのだ。中臣氏(藤原氏)の祖とともに。



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◆第一の寄港地「宇佐」

2016年11月03日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 阿蘇山の北部、現在の大分県・福岡県・熊本県の県境あたりが狗奴国と倭国の戦場であったことは既に書いた通りであるが、宇佐はこの前線に供給する鉄製兵器を製造する拠点ではなかったろうか。宇佐は精錬から鉄器製造までの一貫プロセスを持つ地域であったと考えられる。宇佐のすぐ隣の国東半島東岸沿いの砂浜は砂鉄の宝庫であった。昭和29年に中沢次郎氏・丸山修氏が行ったこのあたりの砂鉄鉱床についての調査報告書によると、調査した昭和29年時点においても12ケ所の砂鉄鉱山が稼動していたという。国東半島はその中心にある両子火山の噴出物で形成されており、大半が安山岩である。この安山岩は磁鉄鉱を含んでおり、四方に流れ落ちる急峻な河川により岩が砕かれ砂鉄となって下流に流れていく。結果、河口付近の砂浜に堆積した浜砂鉄、波に打ち上げられた打上砂鉄が豊富に蓄積されていく。先に薩摩半島や大隅半島で見たのと同じ状況が実はここ国東半島にもあった。

 大分空港のすぐ北、国東町重藤にある重藤遺跡ではその製造時期が何と紀元前695±40年とされるとてつもなく古い鉄剣が出土した。さらに国東半島一帯には2万トンとも3万トンとも言われる鉄滓があるという。鉄剣の製造年代の真偽はさておき、古代より精錬製鉄が行われていた証左となろう。また、大分空港を挟んで南側には宇佐神宮に祭られている比売大神の前住地とされる奈多八幡宮が隣接しており、宇佐と鉄のつながりを類推させる事実として興味深い。
 この重藤遺跡の北側、国東港わきに流れ込む田深川の下流域右岸にある安国寺遺跡は弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡で、低湿地帯であったために保存状態がよく、鍬や田下駄などの木製農具や高床倉庫あるいは住居の建築部材、杭や矢板、300以上の柱穴、炭化米、植物の種や実、花粉などが出土したことから「西の登呂」と呼ばれてきた。二重口縁壺に特殊な櫛目模様を付けたこの地方独特の土器も見つかり、遺跡名にちなんで安国寺式土器と命名された。稲作を行っていたであろうこの集落は製鉄に従事した人々が暮らす村だったのではないだろうか。

 宇佐と接する国東半島はこのように一大製鉄産地であった。書紀によると、日向を出た神武一行はこの宇佐の地で宇佐国造の祖である菟狭津彦(うさつひこ)・菟狭津媛(うさつひめ)の歓待を受けた。菟狭津彦・菟狭津媛は古くから宇佐に住む土豪と考えられ、書紀には神武一行を歓待する為に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を宇佐川の川上に設けたとなっている。この宇佐川は現在の駅館川とされており、その下流右岸、宇佐神宮の北西3キロほど行ったところの台地上に川部・高森古墳群があり、前方後円墳6基、円墳120基など3世紀から6世紀にかけての古墳が密集している。これは九州では西都原古墳群につぐ規模である。なかでも全長57.5mの赤塚古墳は3世紀末の築造で九州最古の前方後円墳とも言われ、三角縁神獣鏡4面、三角縁神竜虎鏡1面、管玉3個、鉄刀片3個、鉄斧1個などが出土し、この地の有力者の墓であることは間違いない。また、他の5つの前方後円墳は以下のように時の経過とともに築造されている。免ケ平古墳(4世紀、全長50m)、福勝寺古墳(5世紀、全長80m)、車坂古墳(5世紀、全長60m)、角房古墳(5世紀、全長46m)、鶴見古墳(6世紀、全長31m)という具合だ。このことから、これら6基の前方後円墳は有力者一族の代々の墓が継続的に築造されたと考えられる。そしてその有力者一族とは宇佐国造の祖である宇佐族、いわゆる宇佐氏であろう。この川部・高森古墳群から駅館川を上っていくと右岸には環濠集落である東上田遺跡、野口遺跡、上原遺跡、小向野遺跡、左岸には別府遺跡と弥生時代の遺跡が密集している。宇佐一族を長として栄えた一帯であったと考えられる。また、この一帯と目と鼻の先のところに現在に至るまで絶大な力を保持し続ける宇佐神宮(宇佐八幡宮)がある。

 ともかく、古代の宇佐はそういう地であった。果たして神武は何の目的でここに立ち寄ったのだろうか。書紀の記述には戦闘の記述はなく、逆に首長が嬉々として一行を歓迎している様子が描かれている。また、浜砂鉄を原料とする製鉄一貫プロセスの技術はまさに南九州のそれと同じである。宇佐の地は神武の勢力範囲、同盟国ではなかったろうか。北九州倭国との戦闘に兵器や兵士を供給する兵站基地としての役割を果たしたのではなかろうか。宇佐から国境地帯に出陣すれば背後から挟み撃ちにすることが可能となる。宇佐の存在が国境戦における狗奴国の勝利を確定的にしたとも言えるだろう。神武は宇佐の首長をねぎらうため、さらには宇佐との関係性をより強固なものにするためにこの地を訪問したのだろう。
 書紀には「菟狭津媛を神武の家臣である天種子命(あめのたねこのみこと)に娶らせた。 天種子命は中臣氏の遠い祖先である」と書かれている。乙巳の変の立役者である中臣鎌足や書紀が完成する頃に絶大な力を持っていた藤原不比等につながる中臣氏の祖を登場させたということは、その後の政権と宇佐との関係性を予見させ、さらには中臣氏が祭祀を司る氏族であったことがその後の宇佐神宮の繁栄につながったということを想像させるに十分な効果があろう。



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◆神武東征

2016年11月02日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 神代巻が終わり、いよいよ神武天皇紀に入る。ここからは神武東征を順に考えていくことにする。まず、神武天皇が東征するにいたった状況を書記に見てみよう。彼は45歳になったときに兄弟や子供にこう言った。「昔、高皇産霊尊と天照大神がこの豊葦原瑞穗国を祖先の瓊々杵尊に授けた。瓊々杵尊は天の戸を押し開き、雲路をかき分け、先払いを走らせてから地上に降りた。そのとき世は太古の時代でまだ明るさも十分でなかった。その暗い世の中にありながら正しい道を開き、この西のほとりの土地を治めた。代々の父祖の神々は祝い事や尊敬されるような事を重ねて多くの年月を経た。天孫が降臨してから179万2470余年になる。しかし、遠いところの国ではまだ天津神の恩恵を得られず、その地の国には王がいて、村には長がいて、境界を設けて互いに争っている。 ところで塩土老翁に聞くと、東に良い国があり、青い山に囲まれている。その中に天磐船に乗って飛んで降りた者がいるという。思うにその土地は必ず大業を広め、天下を治めるに相応しい場所だろう。きっとこの国の中心となるだろう。その飛び降りた者とは饒速日(にぎはやひ)だろう。その土地へ行って都にしようではないか」
 瓊々杵尊が降臨して治めたのが西のほとりの土地、日本列島の西のドン詰まり、すなわち九州南部である。そこから離れたところでは国々が境界を定めて争っているという。倭国大乱の状況を記したのだろうか。そして東には四方を青い山々に囲まれた良い国があり、天津神と同様に天から降りた饒速日がいる。この地はまさしく畿内の大和であり、その地を治める饒速日がいることを知りながらそこに都を作ろうという。これはまさしく饒速日に取って代わって王になろうという意思表示である。

 さて、北九州倭国と狗奴国の国境線における戦闘では、前線で武器を生産して供給を続けることができる狗奴国が常に優勢であったと考えられる。狗奴国は前線での勝利をほぼ手中にしていた。そのタイミングで狗奴国王は自らの指揮のもと、北九州倭国を統治し、さらに倭国の本丸である畿内の邪馬台国を制圧する目的で狗奴国を発った。狗奴国王とは倭人伝にある卑弥弓呼であり、書紀にある神日本磐余彦尊(のちに即位して神武天皇となるが、便宜上、以降は神武天皇あるいは神武と記すこととする)のことである。
 もともと東シナ海を航海できるほどの海洋技術を備えていた狗奴国の王である神武は自ら舟軍を率いて、海路にて瀬戸内海を経て畿内を目指そうとした。その出発の地は阿蘇の東南、現在の宮崎県西臼杵郡高千穂町あたりではなかっただろうか。ここには高千穂神社があり、祭神として高千穂皇神、すなわち日向三代と称される皇祖神とその配偶神全てを祀っている。国境戦の大本営として、あるいは狗奴国北進後の北の都として機能した拠点だったと考える。
 大本営の高千穂を出発した神武一行は五ヶ瀬川を船で下り、現在の延岡市から日向灘へ漕ぎ出した。この出航の地について、古事記には日向の名を記しているが書紀には記述がない。現在の日向市の南、耳川の河口に美々津という所がある。ここは神武東征出発に関する伝承が多く残っている。一行の出発が急遽早まったため、早朝に里人を起こして回ったとする伝承から「起きよ祭り」という祭りがある。また、美々津には「つき入れ餅」という餅があるが、一行の出発にあたり、餅の餡を包んでいる時間が無かったため小豆と餅を一緒につき込んで渡したことから名づけられたという。しかし、高千穂を出発したと考えれば出航の地は五ヶ瀬川河口とするのがよいだろう。ちなみにこの五ヶ瀬川の上流には西臼杵郡五ヶ瀬町があり、神武の長兄である五瀬命との関連を想起させる。五ヶ瀬川から日向灘へ出た神武一行の第一の寄港地は宇佐であった。なぜこの宇佐に上陸する必要があったのだろうか。



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大御神社(日向への実地踏査ツアー No.4)

2016年11月01日 | 実地踏査・古代史旅
2013年7月6~7日、宮崎神話の里を訪ねるツアー。早朝の国見ケ丘で見事な雲海を拝んだあと、神武一行が下ったと思われる五ケ瀬川に沿う国道218号線で太平洋へ向かう。目的地は宮崎県日向市日知屋にある「日向のお伊勢さま」と呼ばれる大御神社。

以下は神社ホームページより抜粋した由緒。

 大御神社は、皇祖天照大御神を御祭神とする古社で、創建の年月は詳らかではないが、当社に伝わる「神明記」その他の古文書によれば、往古・皇大御神・日向の国高千穂に皇孫瓊々杵尊を天降し給うた節、尊は当地を御通過遊ばされ、千畳敷の磐石にて、これより絶景の大海原を眺望され、皇祖天照大御神を奉祀して平安を祈念されたと伝えられ、後世、此の御殿の霊石の在りし所に一宇を建て、皇大御神を勧請し村中の鎮守と崇敬し奉ると言う。
 また、神武天皇御東遷の砌、大鯨を退治された御鉾を建てられたことから、鉾島が細島に転じたと伝えられているが、天皇はこの時、伊勢ヶ浜(港)に入られ、皇大御神を奉斎する御殿(現在の大御神社)に武運長久と航海安全を御祈願されたと伝えられ、大御神社の西に横たわる櫛の山と、東に隆起する米の山(久米の山)は、神武天皇の先鋒の天櫛津大久米命の名に因むものであると言う。
 その後、当社は日知屋城主伊東氏ら歴代城主はもちろん、延岡城主、幕領代官等に尊崇され、地方の民も「日向のお伊勢さま」と呼んで崇敬し、且つ親しんできたのである。最近ことに、御神徳を慕って県内外の参拝者が激増している。
 大御神社の社名は、天照皇大御神の大御をいただいて社名とした、と伝えられているが、本殿に残る天保・安政年間より大正5年までの祈願木札には天照皇大神宮と記されている。(以下、略)



神社は海岸沿いにある。15百万年前、沖にある海底火山の活動によって海岸一帯に押し寄せた多量の火砕流が堆積、長い年月をかけて固まった柱状節理(溶結凝灰岩)の上に建っている。

社殿を裏手から。


由緒。


社殿。


境内にある神坐。瓊々杵尊がこの地を遊幸された折、この上に立って絶景の大海原を眺望したと伝えられる岩。


龍神の霊(たま)。この地は5000年前の縄文人が龍神信仰を行っていた古代遺跡だという。


鵜戸神宮。本殿から少し歩いた海岸の洞窟内に鎮座する神社。神社サイトによると、祭神は鵜葺草葺不合命、彦火瓊々杵命、彦火々出見命、豊玉姫命、塩筒大神。


洞窟内から。

角度を変えると光り輝く昇り龍が。



由緒となっている瓊々杵尊や神武天皇の説話は記紀に登場しない。縄文時代から龍神を信仰してきた人々が記紀が編纂されたあと、その信仰の対象を変化させたのだろうか。大海原や海岸の岩々と一体になった境内は圧巻であり、これぞパワースポットという印象でした。

宮崎神話の里を訪ねるツアーはこのあと西都原古墳群を訪ねて終了する。残念ながら西都原では掲載できる写真がほとんどないため、ツアーの紹介もこれにて終了です。



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