皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

とびだせ!釣り仲間

2018-10-13 22:53:15 | 記憶の片隅
休日のレジャーと言えば釣り。のんびりと釣糸を垂れ、当たりを待つ。サザエさんのシーンが思い浮かぶ。しかし日曜休みではない生活を四半世紀近く続けて、サザエさんも釣りも縁遠い生き方だった。何故か急に釣りがしてみたく、釣りの経験のない長男を連れて寄居の釣り堀まで行ってみた。勢い余って10時の開店前についてしまい周囲を散策するも沢の水が流れるばかり。でも求めていたのはこうした環境。先日の台風の大風のせいか、山の木々も倒れているところもあった。思い起こすと自分自身、釣りをするのは恐らく中学生以来。魚を釣る感覚など忘れていた。しかしそこは釣り堀。針を垂らせばすぐにニジマスが餌に食らい付いて来る!次々に釣り上がり、あっという間にバケツいっぱいに。終わるとすぐに塩焼きにして食べることができる。しかも釣った魚は焼いてお土産にしてくれる。
遠い記憶に、小学校の頃プールで釣り大会があった。三十年以上前のことだ。何の魚かよく覚えていないけれど、秋から冬にかけて養殖し、春先に釣り大会をしてから、プールを洗い(勿論子供たちで)、夏に水泳をしていた。
テレビ東京の番組に、「とびだせ!釣り仲間」というのもあった。おぼろ気ながら見た記憶がある。今よりも娯楽も少なく、インターネットもなかった時代。釣りは娯楽の代名詞のようなものだった。店の入り口には、ニジマスの供養塔が建っていた。生け簀の放水の写真を撮った際に四年生の長男は、手を合わせ目を閉じた。滝に打たれるポーズをとったのだと思うが、生き物の命を頂く意味を表現しているようで何とも奥深い表現の様だった
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14インチのテレビの前で

2018-06-22 22:29:10 | 記憶の片隅

 サッカーワールドカップロシア大会が盛り上がっている。もちろん日本が初戦を勝利したおかげだ。小学校6年生の時にTVでキャプテン翼が放映されていた。野球小僧だった自分も夢中で見ていた。中学に入り野球部に入ったが、クラスの友達のサッカーの実力に驚いた。まさしくカルチャーショックだった。ボールが足に吸い付くようなドリブルを見たとき、翼君を見た気がした。
 大学に入るころJリーグが開幕し、KAZUやラモスを応援した。もちろん日本代表も。1993年サッカーワールドカップアメリカ大会アジア地区最終予選。勝てばワールドカップ出場が決まる最終イラク戦を初めて一人暮らしを始めた都内の築30年以上のアパートの部屋で一人小型TVで見ていた。
 後にドーハの悲劇と呼ばれた一戦だった。終了間際にサイドからクロスボールを上げられまさかの同点。崩れる選手。足を懸命に延ばす三浦選手の背中をリアルタイムで見ていた。
 あの悲劇から日本は強くなったとも聞く。勝っても負けても心の中で応援し続けたいと思う。
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6月10日の校内放送

2018-06-09 21:27:34 | 記憶の片隅

 小学校六年生の頃、放送委員を務めていた。週に何回か校内放送で学校生活の注意事項などしゃべった記憶がある。優等生的なところがあって先生の覚えもよかったと思う。「6月10日は時の記念日です。皆さん時間を守って行動しましょう」のようなことを台本通りに話したと思う。もちろん時の記念日がどうしてその日なのか疑問に思うこともなく。
 戦前生活改善運動として、時間を守り欧米並みに生活の改善、合理化を図ろうと制定されたらしい。今や日本人の時間規律は厳しく正確だと知られている。列車の運行時刻がよい例で、わずかな遅れでも許されない風潮だ。
 由来は「日本書紀」天智天皇十四年(671)に記述に「漏刻ヲ新しき台に置く。始めて候時を打つ」とあるらしい。日本で初めて時計が打った日が6月10日であるとして記念日となった。漏刻とは水時計のことで昼夜を問わず、また天候に左右されず一日中時を知ることができたという。天智天皇は大化の改新で蘇我入鹿を討った中大兄皇子で、改新後永く摂政に留まり時を待って即位したという。
 時間だけは誰にも平等に与えられ、二度と戻すことはできないという。校内放送で話した日から三十年以上たち、過ごした時間の長さをしみじみと感じている。
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もしも願いがかなうなら

2018-01-08 21:37:47 | 記憶の片隅

もしも願いがかなうのなら
どんな願いをかなえますか
僕は迷わず答えるだろう
もう一度あなたに逢いたい

逢いたい逢いたい忘れはしない
貴方は今も心にいるから
ありがとうありがとう伝えきれない
想いよどうか届いて欲しい

三が日多くの神社は参拝者で賑わった。それぞれ何を願ったのだろう。夢がかなうように。幸せになれるように。
二度と会えない人に逢うにはどうしたらいいのだろう。

ご近所のお爺さんがなくなった。八十六歳だった。お爺さんというよりは私にとって父の世代の身近なおじさんだ。
私の父が亡くなる前は、皿尾城の自治会館前で父と二人景色を眺めながらよく話をしているのをおぼえている
子供のころからずっと私のことを下の名前で『タカシゲ君、タカシゲ君』と呼びかわいがってもらった。私が四十半ばになっても同じように幼名で呼んでくれる数少ない人だった。
 会葬礼状を読み涙が止まらなかった。
 誰とでも分け隔てなく接し義理人情を大切にする懐の深い父だった
 温かな家庭で育ててくれた両親に感謝の念は尽きません
 よきご縁に恵まれた幸せな人生だったと信じて安らかな旅立ちを見送ります

ご冥福をお祈りしながら、幼いころの記憶を思い起こしています。




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ロングビーチ小磯!

2017-11-16 21:20:53 | 記憶の片隅

 大将先生の講演会にて思い出したこと。遠い昔の記憶。
吉田先生はいつもダジャレばかりを言っていた。講演会でも変わらなっかた。「調子が出ない、調子調子というけれど千葉県(銚子)じゃない!」こんな具合。親とは木の上に立って見る。そんな肝心要の漢字ができないと感じが悪い。そんなことを言っていた高校の先生もいた。
 中学2年生の時。遠足か社会科見学の引率の先生を吉田先生が生徒に紹介する場面があった。もちろん自分のことは「〇年〇組は大将!吉田博先生」
 そして僕のクラスは英語の担任の小磯先生。きれいな女の先生だった。
 「2年4組はロングビーチ!小磯先生!!」とアナウンスした。一瞬なんのことだかわからず、首を傾げた。後から友達に尋ねると、こう答えてくれた。
「大磯ロングビーチだよ」当時芸能人によるTVの水泳大会がよく放送されていた。アイドルの水着大会だ。松田聖子や柏原芳江が出ていたと思う。その水泳大会が大磯ロングビーチでやっていた。多くの大人が見ていたと思う。
そんなフレーズで突然紹介をされた小磯先生の苦笑いが忘れられない・・・
昭和六十二年、中学校での遠い記憶。

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