皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

持田竹之花 天神社

2022-07-05 21:04:02 | 神社と歴史 忍領行田

忍城の北西に広がる持田地区はもとは糯田と書いて、上、中、下地区と菅谷に分かれていた。上、中は剣神社、下は久伊豆神社(大宮神社)菅谷は八幡神社をそれぞれ村社として祀る。当社は上持田地区の剣神社の氏子区内にあり、字名は「竹ノ花」と称す。いまでも近くの忍川にかかる橋に「竹ノ花橋」と名が残っている。
持田は忍川の用水が水田よりも高かったため水利に恵まれた反面、治水には苦労した。同じ竹ノ花地区にある諏訪神社の勧請は古く建久(1190)頃と伝わり成田泰時は延徳二年忍城造営にあたり、城鎮守として竹ノ花から城内へと勧請していることから、忍城下よりもここ竹ノ花地区の方が早くに開けたいたことがわかる。


当社は持田の風雨火水を司る大自在天神すなわち菅原道真公を祀ったものと考えられる。現在の一間社流造りの本殿は昭和36年に立て替えられたものでそれ以前の造営については不明である。氏子は剣神社の境内外末社として当社を祀り、年に一度天神講として祝う。古くは子供のみで祭りを運営し、「子供組」の名残を残していたという。

年長のものが親方として役を受祭事を執り行っていたのは明治期以前には多くの神社で見られたそうで、村の中での共同体の形成を行い世代間で集団形成をする役割を担っていたものと考えられている。現在では自治会の青年部がその役割を担っているが個人主義の進行と少子化によって多くの地域がそうした役割を消失してしまっている。
戦後70年で日本の国力が大きく損なわれてしまった要因のひとつがこうした地域の世代間交流の無さにあると思われる。
地方の神社にはこうした共同体形成の役割が求められているだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若小玉 勝呂神社

2022-05-18 21:30:23 | 神社と歴史 忍領行田

行田市若小玉は、古くは若小玉小次郎なるものが住む地と伝わり、風土記稿によれば「嘉禎(かてい)四年(1238)二月二十三日、将軍供奉名のなかに、若小玉小次郎と記す(略)建長二年(1250)閑院殿造営の内、若小玉次郎とあり」鎌倉初期に当地の豪族であった若小玉氏から地名となったのであろう。

御祭神は中筒男命(なかつつおのみこと)イザナギノミコトの禊の際に生まれた水の神。住吉大社の御祭神である。中でも神功皇后の三韓征伐の折り、住吉大社の御神徳で帰路に着け、応神天皇をお産みになられたことから、航海の神、海の神、水の神として近畿を中心に篤い信仰を受けている。なぜ中筒男命がこの若小玉に勧請されたのか、創建時期についても不明であるそうだが、明治期までは別当として真言宗安養山遍性寺が勤めている。往時の本地仏である十一面観音像を本堂に祀るという。明治期の合祀政策で各耕地の十社以上が集められたが、八幡山古墳の頂きにあった八幡神社は古墳に石室が発見されたことで旧地に戻されたという。

また本殿脇に祀られる榛名神社は群馬の本社と同等に霊験あらたかとと伝わり、戦前戦後においても、群馬の総本社への代参は行われなかったという。
昭和初期に建てられた本殿拝殿の彫刻は見事で、神社建築の粋を今に伝える。

現在に至っても大祭時にはササラが奉納され、行田市無形文化財に指定されている。また境内地に建つ神楽殿は平成になってからも修繕が入り、ササラ伝承を大事に守っている様子が伝わる。

もとは大祭(9月二十日)に奉納され、雨乞いササラであったそうだ。五穀豊穣と疫病退治を願い長い伝統を今に伝える若小玉のササラ。
曲目は「橋掛」「花掛」「鐘巻」等があり、特に「鐘巻」見ずして若小玉のササラを語ることなかれと伝わるほど圧巻の舞を仕上げている。
行田市文化財化:の解説によれば、ササラの起源は文化十一年(1814)「鐘巻」はスサノオノミコトがヤマタノ大蛇を退治する場面で、演目後、子供が元気に育つようにと、釣り鐘の上に子供を座らせる光景があるそうです。

境内入り口には巨大な日露戦争出征記念碑が建ちます。非情に国威掲揚が盛んであった時期でしょう。

境内地のあちこちに伊勢奉納神楽の記念碑が残ります。

神社運営上非情に興味深い記事が載って折り、天保、安政期には大祭は七月に行われていましたが、大正期に例祭日が7月二十日から九月二十日へと変更になった子とが伝わります。これは祭りの費用を用立てるにあたり、七月では作物のとれ具合を図るのに大祭そのものを7月から9月へと変更したとの記述が残っています。祭りあっての神社、神社あっての氏子ではありますが、当時では大祭の準備は大変おががりなものであったことでしょう。作柄が明確でなければ、御例祭の用立てもままならない時代の子とです。
それでも今日現在ササラは継承し、他の祭事も奉納されるといいます。
祭りあっての氏神さまであることがよく伝わります。
いつかササラを見に行き壮大な祭りの様子をこのめでみたいと願っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2022/03/24

2022-03-24 22:20:31 | 神社と歴史 忍領行田




















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

煤払い

2021-12-08 23:30:27 | 神社と歴史 忍領行田

年越しの準備として拝殿煤払いをしました。昭和六年建造の社殿は今年で築90年。

一枚板で仕上げられた扁額はいつの時代のものか近いうちに調べたいと思います。

龍の彫りの足元が馬の蹄のようです。

神社の彫刻は旧長野村の柿沼勝石氏によるもの。
よく見ると柱の割れは上部の画ビョウを刺したところから始まっていました。木は建築となってなを生きものであるということがわかります。年内の祭事は暮れの大祓いを残すのみとなりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河原神社と水の神

2021-01-18 21:07:00 | 神社と歴史 忍領行田

 星宮地区下池守を北上し、行田市内北部を横断する星川を渡って進むと馬見塚、中江袋といった田園地帯が広がり、さらに進むと旧南河原村の中心よりやや西側に河原神社が鎮座する。利根川が運ぶ肥沃な土壌を背景に早くから開けた土地で、私市党(きさいとう)河原氏が兄弟で領有し、兄の領地を南河原、弟の方を北河原と呼ぶ。

 社記によれば応保元年(1161)平賀冠者義信が武蔵守に任じられ、関東へ下向し河原郷に城郭を築いて居住した際、先祖以来信仰していた住吉の神を祀るために、入間郡勝呂郷の住吉神社(坂戸市塚越)の分霊を勧請し、勝呂神社と称したことを由緒とする。ところで坂戸塚越の大宮住吉神社は文治三年(1187)頼朝の命によって北武蔵十二郡の総社に選ばれ、神職勝呂家はその当主としての役割を果たした。北武蔵十二郡とは入間・高麗・比企・男衾・大里・秩父・幡羅・榛沢・賀美・児玉・埼玉(さきたま)を指し、時代が下った江戸期には神祇官吉田家の出先機関としての仕事も行ったという。貞享三年(1686)の「北武蔵十二郡社家衆判形改帳」には六十社家の姓名と奉仕神社が列記され、当時の支配関係が読み取れる。尚、当家もそのうちの一つに当たる(青木家)。

棟札によれば本殿は延宝二年の再建、拝殿は宝暦十年の建立という。

当社は勝呂様の名で親しまれ、水の神として信仰が厚い。社殿裏には弁天池と呼ぶ池があり渇水期にはこの池の水を入れ、社蔵の獅子頭を被ったものが池に入ると雨がふると伝わる。あ現在では水は枯れ果て葦の藪となってしまっている。例大祭は八月一九、二十日の二日間であるが、お盆明けの土曜にササラが奉納されるようである。かつては神輿とともに獅子が村中を練り歩いたと伝わるが、あばれ太鼓とともに境内での盛大な夏祭りへと変化している。境内に立つ板碑は鎌倉時代のもので建長二年銘板碑として知られる。石材は荒川上流長瀞周辺の緑泥石であるが、これは古墳時代に使われた石棺石材の転用のもので歴史的価値が高い。

摂社の一つに多度社一目蓮社がある。多度社は三重県桑名市にある大社で天津彦根命を祀る。天照大御神の第三子。伊勢神宮との関係が深く、「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」と詠まれた。天津彦根命は天照大神と素戔嗚尊の誓約神話で生また男神五柱の一柱で多くの氏族の祖先として祀られている。

 また一目連社はその天津彦根命の子である天目一箇命(あめのまひとつのかみ)を祀る末社で本来は片目のつぶれた竜神である。天の岩戸神話においては刀斧を作ったとされる。また大物主神を祀るときには鍛冶として料物を作ったとされる。鍛冶師が仕事柄片目をつぶすという伝承は全国に残っている。(お先沼等)

一目連は竜神としての性格から風をつかさどる神として知られる。伊勢湾においても雨乞いのと海難防止の祈祷がなされたという。水神との性格が近い。

さらに末社として青麻三光社を祀る(あおそさんこうしゃ)。青麻神社は宮城県仙台市に鎮座する青麻社・三光社の総本社で穂積保昌が山城国からみちのくへ下向した際一族が崇拝した日星月の三光を祀ったのが始まりという。日は天照大御神、星は天御中主神、月は月読命である。穂積保昌が土地土地に麻の栽培を広げたことにより「青麻」が社名となったという。氏子区域は明治初めに村社となってから南河原全域の鎮守となる。維新後もこの地の生活基盤は米麦大豆といった農業中心であったが、大正末期より麻裏草履の生産技術を生かしたスリッパの製造が村の主要産業となっていった。現在でも行田の足袋と並ぶ地場名産品の一つとなっている。

昨年秋に亡くなられた神社総代の御ひとかたと約四年間のお付き合いをいただいた。2年前の例大祭でお会いした時の優しい笑顔が忘れられない。故人のおかげでこの河原神社を始め世良田東照宮、など多くの御縁をいただいた。生前の御恩に深く感謝し哀悼の誠を捧げたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする