皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

下須戸 八坂神社

2020-06-06 20:21:58 | 神社と歴史 忍領行田

行田市中部東端に位置する下須戸は星川下流、見沼代用水の通る肥沃な田園地帯だ。旧国道125号沿い、その先は羽生市へとつながって行くが、市内に対になる「上須戸」の地名は見当たらない。新編武蔵風土記稿によれば、「上須戸」は幡羅郡にあり対となるという。現在の妻沼の地である。

 しかし上下一対の地名にしては距離的に無理があり、「須戸」とは「州門 」であり即ち中州の先端を指すものと思われる。幸手市にも「須戸」の地名が残り、古くは利根川流域に散見した地名と考えられるが、河川の流れの変化により、地名も消滅する中で、この地の名は残たものだろう。

口碑によれば、約七百年前、鎌倉幕府の迫害を受けた一人の僧が牛頭天王の象を奉じてこの地に住み着いたとされる。この者が旧別当真言宗天王院医王寺の開祖であるという。

医王寺の寺鎮守として牛頭天王を祀ったことが当社の創始とされる。牛頭天王とは素戔嗚尊のことで、総本社は京都祇園の八坂神社である。

本殿脇には四坪ほどの池があり、古くからの信仰の中心という。昔近郊一円に疫病が流行り、医王寺の僧は感染の原因となる生水の飲用を村人にやめさせ、代わりにこの池の水をに沸かして与えたところ、当地は疫病から守られたと伝わる。

 以来この池の水に対する信仰が高まり等遠くはるばるこの水を受けに来るものが後を絶たなかったという。また日露戦争後、当社に参拝すると敵の弾に当たらないといわれ、益々崇敬も増したという。

境内地には「日露戦役凱旋記念碑」が建っている。碑文は陸軍大将山縣有朋によるもの。行田市内には日露戦役の記念碑が16基残っているが、その中の2基が山縣有朋の書によるもので、ここ八坂神社と前玉神社に残っている。

 例大祭にはかつて馬に乗った神職を先頭に神輿が村中を廻ったという。神輿の出立に先立って、神職から馬まで水を被って清めたという。これは昔天王様が水行したという伝承によるもので、神輿は「女天王」と呼ばれていた。現在でもその記念碑が残っている。

古来、戦と並んで恐れられたのが疫病である。その恐怖は尋常でなかったのだろう。昔は「厄災」を世の中に怒りや恨みをもって亡くなった人の祟りと考えていた。また疫病を司る神の仕業と思っていた。牛頭天王はインドの寺の守護神で、病気を流行らせる神だとも考えられていた。そこで牛頭天王を鎮める御霊会が平安中期から広まっていったのだという。

行田市内には八坂社はここ下須戸と白川戸の二社であるが、加須、羽生には八雲神社を含め八坂神社、祇園信仰が数多くみられる。羽生の八雲神社の例大祭、天王様の祭りは今でも盛大に行われている。令和の御代に今般のウィルス蔓延の事態となり、改めて八坂祇園信仰が高まっている。

 稲作を中心とした農耕信仰が神道の起源だと考えられるが、厄災、疫病除けもその派生的起源として古くから広まっていたものと考えられる。

 

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行田市 藤間神社

2020-02-29 22:58:24 | 神社と歴史 忍領行田

 忍領藤間の地は、見沼代用水の東側にある低地であるが、古くは「当間」と書いていた。柳田国男によれば「トマン」のンを省いた表現でトマンとはアイヌ語で沼、湿地を表している。こう記すともっともらしく聞こえるが、地名の由来にアイヌ語を引用することにどれだけの信憑性があるかは不明である。

 現在でも数本の用水路が北西より南東へと流れ、雨量が多いと時に溢水に遭うというが、そのおかげで農地としては肥沃な土地柄であるという。

口伝に「藤間さんまで米の飯、小針は焼びん(あまり飯にうどんや味噌を混ぜて焼く)」などといったらしい。こうした土地の作柄を伝える表現は多く、例えば忍領西部では「前谷は持田の悪田」などと云ったのも残っている。水路に恵まれることは洪水の恐れもあるが、稲作には向いていたのだろう。

小字に一ノ口、二の口といった名が残り、当地は五の口稲荷神社であった。今でも氏子はお稲荷様と呼んでいるという。一方一ノ口には雷電社があり、風土記稿によれば両社とも真言宗花蔵院持ちであった。花蔵院も今はなく、真名板に残っているのは薬師堂だけとなった。本殿東にあるのが雷電社の旧社伝であるという。明治期に神仏分離によって寺の手を離れ両社を合祀し、社名も藤間神社と改めたという。故に御祭神は宇迦御霊神。

太平洋戦争開始前の戦勝祈願の燈篭が残る。昭和14年といえばまさに第二次大戦の始まった1939年。日中戦争勃発の二年後のことだ。この年の十月に私の母はこの世に生を受けている。教科書の年号を追っているだけでは歴史を身近に感じることはできない。こうして地元の神社を巡ることで、近代の歴史に直接触れることができるように思う。

鳥居の脇に建つ弁天様。水神である弁財天を祀っている。

十月十四日の大祭には灯篭が納められ大正期までは「藤間遊楽団」と称して万作踊りや芝居を奉納したという。また講社も榛名、宝登山、浅間講などがあったが、世話人の引き受け手がなくなると、自然に消えてしまったという。

 地方の旧村社の多くは、明治以降こうした歴史をたどってきたと言える。神仏分離、村社への合祀、戦時の国威発揚と戦勝祈願。戦後復興のよりどころと、祭の娯楽化。氏子共同体の講社の結成。高度成長と個人主義化。世話人の継承断絶。講社の衰退。祭りの簡素化。

 こうした流れを変えるには、神社本来の意味をもう一度捉えなおすことから始めるべきではないか。度重なる自然災害に続き、未曽有のウィルス感染に国中が揺れている。

星川の流れに春の訪れを感じながらそんなことを考えている。

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野 久伊豆神社

2020-02-28 22:48:17 | 神社と歴史 忍領行田

 行田市の南端に位置する野は「風土記稿」によれば広い野原であったことを意味し、江戸期の慶長年間(1611~)に開発され「野村」と称したという。天台宗正覚寺持ちとして、村鎮守は近くの野氷川神社であった。

 鴻巣市く屈巣と隣接し、忍領最南東部にあたることから、戦国期には忍、騎西、岩槻と度々所領が変わったことから、戦の度に被害を受けた。よって忍の城主は戦に備えて、野村の道をわざと迷路のように屈曲させたという。記録にはないが、現在でも舗装路は曲がりくねったところが多く、当時を偲ばせる。

西向きの社殿は社務所の様な造りになっており、インターネット地図の検索に乗っておらず、地元の人でななければ、神社までたどり着くのは難しい。また御祭神は大己貴命。本殿内に雷電社が合祀されている。

 口碑によれば御祭神はせっつさま(久伊豆様)の鎮まるところを「中耕地」と呼ぶ。これはせっつさまあが情け深く面倒見のよい神様で耕地内でもめ事がなかったからだという。また同じく中耕地の万願寺は妻沼の聖天様の本家で仲が良いともいわれていたらしい。

文久二年には正一位久伊豆明神の神階を受けている。

祭りは年四回行われ、元旦、丑寅、フセギ、ササラと数える。

丑寅は三月初巳に当たり、志を持って神社に集まり御神酒を頂く嵐除けの意味を持つという。

フセギは七月二十日で土用祭。辻札を立てて直会を行う。ササラは十一月の新嘗祭で、近くの諏訪社、氷川社、万願寺を廻る。

合祀されている雷電社は古くは雨乞い神事があったという。板倉雷電社、榛名社、三峰などの講社もあったというが現在では行われているか不明である。

成田氏が忍城居城後、鬼門(丑寅)に長野久伊豆神社、裏鬼門(未申)に大宮神社(久伊豆社)を祀ったことは城の守りとして知られている。一方で忍城築城以前から成田家の祖先が祀った皿尾久伊豆大雷神社は忍城の戌亥(北西)に当たり、その対方向は辰巳(南東)であり、そこに同じく久伊豆神社と雷電社が合祀されているところが非常に興味深い。偶然ではなく城鎮守として配置されたとみるほうが自然である。

 野の鎮守は氷川様ではあるが、忍城が落ちなかった守りの要が四つの久伊豆社とすれば、この地の久伊豆様の意味合いは忍の歴史に於いて重要なものと考えられるだろう。

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上町 愛宕社

2020-01-20 19:46:53 | 神社と歴史 忍領行田

行田市行田一丁目一番地に鎮座する愛宕社は氏子区域としては現在の大字行田の西部地区にあたる。昔はここを本町一丁目とし更に行田市上町と総称していたことから今でも上町の愛宕様、或いは本町の愛宕様と呼ばれている。一方行田酉の市で名高い愛宕神社は行田下町に当たり長野口に面している。上町は行田市駅前の繁華街にあたり、今では商店街もやや減少しているが城下町時代からの商人の町で、現在でも商工会議所が建ち、足袋産業の象徴として「足袋と暮らしの博物館」整備されている。

行田は先の戦争でも空襲を受けず、古い町並みが随所に残り、近年では「足袋蔵」が日本遺産として認定されるところだが、神社の前は「北谷通り」と言って古くは鎌倉時代からの行田の歴史を映す場所として、道路も石畳状に整備されている。

主祭神は迦具土神(かぐつちのみこと)、配祀神は大己貴命とされ、愛宕様と呼ばれる。社殿内には明治期に奉納された社号額が残る。当時の富豪富田次郎助義興によるもの。

事任神社(ことのままじんじゃ)が合祀された経緯について「埼玉の神社」にも記載がなく不明だが、「事任八幡宮」は静岡県掛川市にある式内社で、遠江国一宮。主祭神は己等乃麻知媛命(ことのまちひめのみこと)で天児屋命の母神にあたるという。清少納言の「枕草子」にも記述があるといい「ことのまま」は願いが「言のまま」に叶うに通じ古くから信仰があったという。但し「枕草紙」には「事のまま明神、いと頼もし」と記されているが、その解釈については清少納言が間違った解釈を皮肉を込めて綴ったとも言われている。いづれにしてもここ北武蔵においてこうした事任神社が合祀されているのは数少ないように思う。

「愛宕」=あたごの読みは祭神迦具土命を母伊邪那美命がお産みになった際、陰部を焼かれて亡くなった神話により「仇子」或いは「熱子」に由来するとも伝わる。全国の愛宕神社の総本山は京都府北西部の愛宕神社とされ、江戸期まで白雲寺という境内にあった。火伏の神として古くから信仰が厚く、各地で寺院は勿論城の火防の神として祀られることが多い。

行田の本町にはかつて法性寺という真言宗のお寺があったという。いつの時代にかお寺は火災により焼失し、明治初めになって忍城内代官町の黒助稲荷社内から、内殿を発見し「正徳二年行田町願主講中当社建立法性寺」と記されていたことからこれを譲り受けたという。

 ところが再建計画の中、法性寺が焼けてしまい、跡地が行田尋常小学校となってしまい、社地がなくなってしまった。ひとまず上町の氏子の稲荷社として安置されたが、仮住まいの神社では心もとないとして、明治十四年元代官所跡地を氏子富田次郎助らが境内地として寄付し社殿を新築、明治十七年遷宮が行われ現在に至るという。

鳥居の脇には「代官所跡」の石碑が建ち当時の歴史も伝えている。殊に行田は忍の城下町として江戸期より人家の密集地で、消防技術が発達していなかった当時としては火事は恐ろしいものであり、愛宕様に火災除けを祈願したのである。

 

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中江袋 剣神社

2019-10-17 21:03:31 | 神社と歴史 忍領行田

 行田市南河原は『平家物語』巻九「二度のかけ事」に登場する河原兄弟が領有する土地として知られ、北河原を弟盛直、南河原を兄高直が納めていたという。河原兄弟は源平合戦の生田の森の先陣を務めた東国の武者として描かれ、兄が矢で射貫かれた際、弟も其の身を挺して兄に寄り添った様子が剛の者としてしられたとして詳しく書かれている。

 当地は南河原の区内でも最も南側に位置し、星川を挟んで池守地区に接している。古くから発達した場所で、水田稲作の遺構も見られるという。行田市内には持田地区に剣神社があり、日本武尊の伝承を伝えるが、神社勧請の由来については不詳である。

石碑によれば御祭神は素戔嗚尊で天神社、稲荷社が合祀されている。平成八年に建立された現在の社殿の前は、天保三年(1833)に再建された社殿が残っていたという。150年近くその姿を伝えていたことになる。

当地は忍城主成田家の家人であった中条丹後が忍城落城後当村に住み、姓を江袋と改めて代々名主を務めていたという。この江袋家とかかわりが窺える寛延二年(1750)の同家名を刻む宇賀神の石碑が残っている。(向かって左二番目)

戦前まで七月に「ないどー」と呼ばれる厄神除けの行事があった。大数珠を持った子供が各家を「ナイドー、ナイドー」と唱えて疫神を払ったという。榛名講は嵐除けとして神札を配り、三峰講は十月に代参し帰ると新米を食べたという。現在こうした行事が継続しているかは不明である。

境内地に地区の第二集会場が建てられ、参道周辺も耕地が良く整備されている。過疎化が進む農村部ながら、こうした氏神様への信仰が強く残り、地区の整備の象徴的場所となっているようだ。

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