皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

忍町尋常高等小学校跡

2019-07-31 00:03:53 | 行田史跡物語

行田市役所敷地内に立つ忍町尋常高等小学校跡。学校は大正11年(1922)に建てられている。忍城東方の守り、内行田沼を埋め立てた場所だったという。

当時あった行田小学校と進修館小学校が合併して31学級1888名の大所帯となりその規模は埼玉県下一であったという。

現在の中央小学校の前身で、近代の行田市の教育施設の発祥の地。昭和四十二年に旧行田女子校に移転している。

少子化に伴い現在では行田女子高校はなく、また中央小学校も学区編成のため数年後にはその名を変える方向で進んでいる。

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忍城 升形門跡

2019-05-19 21:38:11 | 行田史跡物語

 埼玉県内に城郭、館跡、砦などの史跡は数多いが、江戸時代に入って城主がいて城としての役割を果たしていたのは川越城、岩付城、そして忍城の三つで「埼玉三大名城」と呼ばれるらしい。その中でも升形門を構えた城は忍城ただ一つであったという。

 升形城門は江戸城大手門の前に残っており、方形に囲い門を二つ設け、向きを南と西に向けている。周りに堀をめぐらし城堀内に「武者留まり」の広場があった。広場に入ることのできる人員を計量する意味合いから升で量る「升形城門」名がついた。升形城門は幅三間、門扉の高さ八尺と決まっていて、騎馬武者が通れるほどで、旗を背にした武者は馬上で後ろへ反って通ったという。

内側の大手門は幅五間と決まっていて入るに困難出るに易しいという防御の兵法による造りだという。

古い成田氏時代の忍城の図に升形城門はなく、内行田あたりは沼の中の浮かぶ島のようだったことから、阿部氏以降の築城と考えられている。

場所は国道125号行田商工センター前駐車場東側の道を南に入ってすぐのところにある。この近辺には足袋蔵や忍城史跡が多く立ち、観光客の見物する姿も多い。

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忍城 帯曲輪跡

2019-03-26 23:29:02 | 行田史跡物語

市役所前通りを北に進み国道125号線を越え地獄橋跡(先述)を西に入ると矢場地区となる。戦場が地名となった場所の先に帯曲輪跡がある。忍城北方の要の地であり、城中侵入の守りとして徳川家康賞賛の曲輪であったと伝わる。

江戸時代に書かれた「甲子夜話」の文中に「この城の堀は特に多く、登城するのに多くが堀を船で行く」と記されている。今では映画の影響で「忍の浮き城」とよばれるようになったが、昭和の頃までは「水城」と呼ばれることの方が多かった。(コミュニティーセンターみずしろなどと名もついた)

 谷郷の春日神社西の大樋から沼の水を引き入れ、佐間の天神様の堰で水を止めその水量を調節していたのが忍の水城の秘密であったが、この帯曲輪で堰を守ったとされている。

 阿部家以忍城整備の際、帯曲輪の地は堅固に造られ、北側を高い土手に白壁の堀をめぐらし、そのころは曲輪に人家がないほど狭い道であったが松平候の頃から宅地造成がなされ南側に江戸屋敷の米蔵を移築したという。両側に家が並んでいたが北側は高い土手であったことから、櫛型の狭く長い曲輪であったことから「帯曲輪」と名がついたという。

現在曲輪の先に堀の跡が水路となっていて、空いた土地には春の菜の花が咲き乱れている。

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忍城 下忍口跡

2019-02-16 20:40:06 | 行田史跡物語

忍城の南側、下忍口跡。近年新しく建てられた石碑で、住宅地に入り込むように建っている。

忍城は関東七名城に数えられる難攻不落の模範的平城であったという。東を首とし西を尾とする造りでここ下忍口は城の真南にあたる入り口だったとされる。下忍とは上(殿様)に対し仕える武士が住まいにした土地のことで、下忍村自体はここから1㎞ほど先にある。

天正十八年忍城攻めに際し、大将石田三成がここ下忍口を攻めたとされる。

忍城を水攻めにすると厳命したことは秀吉の朱印状から見て取れる。六月上旬に「岩付城は成敗したので(忍城兵)命だけは助けて城を請けとるべき」と各地の武将に宛てている。また六月十二日に宛てた三成への朱印状では水攻めにすること、籠城中の兵は足軽以下は城の端に寄せて受け取ること、三成を信用しているため、他の奉行を派遣することはないなどと記している。

 一方大軍を初めて率いる三成はこの水攻めに対する疑問を持ち合わせていて、浅野長政への書状の中で籠城に対して攻め込むべきではないかと記している。疑心暗鬼の中で秀吉の指示に忠実に従っていたというのである。この結果忍城攻略は長引き、小田原落城後も忍城が落ちなかった原因となったのである。

 丸墓山を起点とする石田堤が即座に築かれたものの、利根川から引き入れた水の勢いは乏しく、石原村の荒川の堰を止め水を注いだが、城を浸したものの城兵を苦しめるまではいかなかったという。

こののち袋、堤根の堤防が決壊し水攻めの工事が無に帰したため、秀吉は鉢形城付近にとどまっていた浅野長政、真田昌幸の二隊に援軍を命じている。浅野軍が陣取ったのが皿尾口。三成軍が下忍口、大谷刑部の軍が佐間口を攻めると協議した。しかし焦った石田三成軍が期日に先立って下忍口を攻めかかり、守将酒巻靱負尉、警鐘を鳴らして援兵を集め激戦の後、石田軍の死者三百、負傷者八百を数え大将軍ながら退却を余儀なくされたという。

 こののち戦況を聞きつけた浅野長政が長野口を攻め立てたが、佐間口の守将正木丹波守が急を聞きつけ精兵五十を率いて寄せ手を挟み込み、浅野軍も退却したという。

太閤秀吉の信頼厚く、戦働きの少なかった治部少輔石田三成にとって、苦い思いをした忍城下忍口であったという。

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持田口御門跡

2019-02-12 19:31:30 | 行田史跡物語

国道125号城西交差点、今は動かなくなったからくり時計の反対側に持田口御門跡が建っている。

忍城西口の固めとしての役割は大きく、この御門から城内となって侍以外の出入りは困難であったという。皿尾口、大宮口と並んで二重の曲輪と水路で守られていた上に持田口は二重の橋で隠された上に門番が厳重に警護したという。いもでも道幅が広くなっているのは当時の名残である。

 「成田記」によれば天正18年(1590)6月館林城を落とした石田三成軍は忍城を完全に包囲したが十日に及ぶ総攻撃にも忍城を落とすことはできず、水攻めの命を受け、丸墓山から堤根、吹上、久下へと石田堤を築き上げた。

 同年7月1日真田昌幸、信繁親子が援軍に来て持田口を総攻撃。守兵も良く耐え忍びここを守り抜く。4日に信繁は馬に乗り紅白の陣羽織を纏って陣頭にて攻め立てるも、本丸から駆け付けた甲斐姫は大将を務めて「敵大軍為れども臆するな」と叱咤激励し応戦すると、石田軍は夕刻を迎えて引き上げたという。

明治六年(1873)、行田町から持田口御門まで現在の国道125号を造ることとなったが、市役所から諏訪曲輪までは当時も沼で、難工事が続き、完成まで20年間近くかかったという。

 また成田氏落城後、家臣退去の折にはここを出て皿尾の長大道を通り熊谷の旧成田地(上之)に落ちていったことから、長大道のことを成田道と呼んだという。

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