皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

行田兵衛尉館跡

2019-01-15 15:11:35 | 行田史跡物語

「行田」の地名は沼地を田としたことから≪田が業(な)ったので業田が転じて行田となる≫という説が有力で、中央小学校の南側を「なり田郭(くるわ)」と呼んでそこに門を立てたことから「成田門」となったという。

 「行田」という地名は千葉県船橋市にもあり、江戸時代行徳と田尻の間に新田を造り、それぞれの頭文字をとって「行田新田」と称したことから今でも船橋市行田の地名がの残っている。

藤原氏を祖先とする(諸説あり)成田氏の初代武蔵守忠基から数えて五代目助高は現在の熊谷市上之の地を本拠として従五位下を賜る。その長男六代助広は成田太郎を名乗り、四兄弟は別府次郎、奈良三郎、玉井四郎と現在の熊谷市東部にそれぞれ拠点をなしている。

 助広の三男成田助忠は五郎を名乗り、源義経に従って、一の谷合戦にて功をなし、現在の行田の地を賜ったという。(吾妻鏡)皿尾久伊豆神社縁起によれば文治四年(1188)成田五郎長景が平家追討の折、伊豆三嶋大社に戦勝祈願し、功を成したことから皿尾地に三嶋大社の御祭神「大山祇神」を勧請したと記されており、文献等に長景の記述はないが年代的にはこの助忠こそが成田五郎長景ではないかと考えられる。

 助忠の次男助任は行田兵衛尉と名乗り、行田の地に館を構えたとされている。

兵衛尉とは「兵衛府に属し、朝儀の儀仗をする役目」の意味で督(かみ)、佐(すけ)、尉(じょう)、志(さかん)といった役職のうちの小隊長格を表している。『吾妻鏡』には承久三年(1221)宇治川の合戦で行田兵衛尉が負傷したと記されている。尚助忠の長男道忠(行田兵衛尉の兄)は一の谷合戦で戦死している。

内行田近辺を行田氏館の内として地名が残っている。商工会館南の路地を行田氏の氏神久伊豆神社参道であるとして、久伊豆神社を長野の地に移したのは文明年中の十四代成田顕泰であったという。

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行田電燈株式会社跡

2018-11-03 00:14:02 | 行田史跡物語

行田市郷土博物館駐車場に建つ『行田電灯株式会社跡』石碑。明治末期にここ行田の地で電力自給の取り組みがされた歴史を知ると、当時の人々の活気や行動力に驚くばかりだ。忍町の将来構想を検討する行田倶楽部(明治41年)の中心メンバーだった今津徳之助氏が発起人となり、資本金10万円で設立されたのが行田電灯株式会社。火力発電によって電灯と電力の供給を行い、独自の事業展開を目指した。

 当時すでに熊谷町や羽生町には電灯が提供されていたという。熊谷までは高崎水力電気が遠距離送電線を用いて送電していたが、忍町でもっ利用者を募り送電線の延伸を依頼したが、断られてしまったという。ならば自力でという当時の忍町事業者の気概が感じられる一面だ。

高崎水力電気が断った理由は、行田倶楽部が志向した産業電力の送電要請が設備投資高騰を招き採算上の支障になったからだという。(高圧だったため)

こうして明治四十三年、県内では川越電灯に次ぎ先駆け的な電灯会社が事業化された。

この電力提供が大きく寄与したのが行田足袋の生産で、明治42年には800万足、大正12年には1200万足、同6年には3200万足と足袋の生産は大きく伸びている。足袋製造が機械化されただけではなく、電灯のおかげで夜間製造時間のが延長でき、所謂夜なべ仕事が可能となったからだ。人、物、エネルギーが三つ巴となって、当時の需要にこたえたのだという。

 当時の人は電灯とはこんなに明るいものだと喜んだという。また当時の逸話に夕方暗くなるころ、表通りに出て『俺のてばたきで電灯がつく』といって何度も何度も皆で手を叩いて、明かりがつくと万歳三唱をして喜んだという。

 その後昭和十七年戦争のため、国家総動員法により東京電燈に強制買上げ合併を命じられ、行田電燈は34年の輝かしくも短い歴史に幕を下ろしている。

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忍馬車鉄道夢物語

2018-09-26 23:02:56 | 行田史跡物語

明治維新となり数年が年が過ぎたころから、ここ北埼玉においても近代化に伴い商品輸送の向上を目指し広域的な鉄道計画が構想された。その多くが新政府に却下され、上野ー熊谷間に汽車が走ったのは明治十六年のこと(1883年)。行田の足袋の生産は年々伸び明治18年には50万、同25年には150万足と伸びていくなで、吹上まで運ぶ5キロの道は長かったという。そこで局地的な交通手段として明治三十二年(1900年)忍馬車鉄道(株)が認可され、長野村から忍町を通り吹上停車場までの経路が翌年開通した。しかし当初の計画よりも工事が大幅に遅れ、結局資金不足により小沼橋手前を最終地点として長野村までの軌道延長工事は打ち切られてしまったという。

忍馬車鉄道は行田ー吹上間を約50分で乗客と一般貨物を運んだという。明治35年の年間客数は約103,000人。1日当たり285人となる。営業的にはほとんど赤字で、その理由は乗客の伸び悩みよりもむしろ開業当初からの足袋業者の貨物輸送が少なかったからだという。自前で運ぶか日本鉄道(国鉄)と提携した業者に依頼するほうが多かったらしい。その後も馬の養育費がかさみ、大正十二年(1924)には北武鉄道(秩父線)が開業し、馬車鉄道は廃止される。

この間約30年。時代遅れとなった馬車鉄道は自動車輸送へと引き継がれ、社名も行田自動車(株)と改められた。

小沼橋から長野口御門前を南に曲がり国道125号に抜ける道の片隅にその発着所があったという。一方時代と共に伸びた足袋もその後ナイロン製靴下の普及により、その生産が急激に下り坂に入るのは馬車道鉄道廃止後約30年、昭和29年のこととなる。

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諏訪曲輪御門跡

2018-09-20 08:17:42 | 行田史跡物語

東照宮の北側の入り口に立つ諏訪曲輪御門跡。本丸の北東を包む一大曲輪の北口として軍事上重要な御門であった。明治に入り下荒井の地より東照宮を遷し徳川家康画像を御神体とした。

もともと諏訪神社は忍城守護の神として持田村にあったものを、十五代成田親泰がこの地に遷している。東照宮も下荒井にあったものを忍城取り壊しの明治政府の命で遷したものだ。家康画像は四十二歳の壮年期の家康を描いたとされ、長女亀姫が駿府城にに訪れた際『何か欲しいものはないか』と尋ねられ『時々会いたくても会えないので家康の絵が欲しい』と答えた為画家に描かせて贈ったという。普段の平穏な家康を描いた生前唯一の画とされる。

 諏訪神社裏の土手は諏訪曲輪の名残で大木は忍城当時のものらしい。

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忍城 成田御門跡

2018-09-10 20:15:15 | 行田史跡物語

行田市立中央小学校の西門入口にある成田御門跡。忍城三の丸入り口には南に面した立派な門があったという。『成田記』によれば忍城は始め亀城と呼ばれていたという。城の周囲の沼には亀が非常に多くいて、亀は縁起が良く喜ばれたのでその名がついたという。亀城がいつから忍城に転じたのかは定かでないが、成田氏入城の頃には忍城となっていたという。
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