皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

シベリアの思い出

2019-05-30 21:02:04 | 食べることは生きること

シベリアとは羊羹または小豆のあんこをカステラに挟み込んだ洋菓子の事で私の勤めるスーパーでも毎日品揃えしている。写真はヤマザキパンの商品で三角シベリア。常温販売だが冷やすと一層美味しく食べられる。

 全国的な商品と思っていたが主に関東中部地方の商品で近畿より先ではあまりなじみがないという。四角く切ったものもれば、サンドウィッチ状に三角のものもある。

 昭和初期に生まれたとされているが発祥については不明確のようだ。羊羹をシベリアの永久凍土に見立てた説、日露戦争に従事していた菓子職人が考案した説など、さまざまあるという。冷蔵庫の無い時代、冷たい食感と涼しげな名前が好まれて、子供の食べたい菓子一位であったという。明治から大正にかけてどこのパン屋でも製造していたようである。

2013年宮崎駿作品映画「風立ちぬ」の中でシベリアが登場し「懐かしい菓子」として再度注目を集めたことがある。

私にとってこのシベリアの菓子は父との思い出の一つ。六十代後半に病気を患い、闘病していたころ好んでこのシベリアを食べていた。昔気質で気難しい父が、病に押され気弱になったことをよく覚えている。私の仕事に対してもいつまでそんなことを続けるのか苦言を呈していたのがこのころからは何も言わなくなっていた。恐らく自分の先を見越していたのだろう。食も細くなり煙草も控え、こうした甘いものを食べるようになった。病院の見舞いに母がいつも用意していたことを鮮明に覚えている。

 先日父の十回忌を迎えた。神道で言えば十年祭。日々忙しく姉に連絡した以外に花を手向けただけであった。

不義理をわびながら父の好んだ洋菓子を遺影の前に供え、ささやかに在りし日のことを偲んだ。

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ぺーヤングとTVCM

2019-03-14 20:32:56 | 食べることは生きること

お昼に一人きりの時には焼きそばが食べたくなる。四角い容器といえばペヤングソース焼きそば。発売は1975年というから40年以上の歴史がある。2014年にTwitterで異物混入騒ぎが大事となり、自主回収の上販売休止になったのが記憶に新しい。むしろその後販売再開後、あまりの人気に品薄が続いたことの方が驚きだった。スーパーの店頭でもいつ入ってくるのか分からず、棚割りに苦労していたように思う。

一度無くなった棚位置を戻すには相当の努力が必要というが、ここまで顧客に浸透していると販売休止後も再開を待ちわびている人も多かったのだろう。ロングセラーのA商品となるのにはそれなりの理由があったのに違いない。

 販売しているのはまるか食品で本社は伊勢崎市だ。食品問屋にいた頃、担当ではなかったが会社が卸売をしていて、工場が近かったことのあり、納品ではなく引き取りに行く取引形態だった。要するに自社便を持っているところはその方が運賃がかからない。商品を段ボールに10個または12個詰めて1ケースとして流通取引するが、2ケース(箱)をPPバンドで縛って1縛りで取引することを1甲(ひとこうり)と呼んでいた。

文脈で説明しても伝わりにくいが、群馬方面からから来ていたベテラン営業マンは「1甲」を「ひとっこうれ」と発音していた。群馬、本庄方面の販売店は皆そうだったように思う。所謂上州なまり。営業の会話の端々にこうした訛りがちりばめられていて、聞いている方はわかりずらいが、今から思うと味があってかっこよかったように思う。そもそもその営業マンは「ペヤング」ではなく「ぺーヤング」と呼んでいた。

 子供の頃ペヤングソース焼きそばといえばTVCM。四角い顔の落語家が出ていた。当時の桂小益(9代目桂文楽)。1980年代前半のCMで柔道部員と落語家がやり取りしていた。

「どうだい味は?」「まろやか~」「もう一丁いく?」「オッス!」

いまだにこのフレーズを覚えている。子供の頃に食べた焼きそばの味は40年近くたっても変わることがない。

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お年賀に和三盆

2019-01-15 19:54:09 | 食べることは生きること

菓子文化を見つめる埼玉銘菓十万石。お正月の御年賀を買った際、新春和三盆糖の干支祝菓をつけてくれる。

 和三盆といえば希少価値のある高級砂糖の代名詞だ。主に香川県や徳島県など四国東部で伝統的に生産される砂糖の一種。黒砂糖をまろやかにした風味を持ち細やかな粒子と口どけの良さが特徴という。十万石の品書きによれば、今から二百年前に讃岐国大川郡港村の向山周慶という人が、苦心の末酒絞りの方法を応用して製造に成功した純日本産の砂糖だという。「盆の上で砂糖を三度研ぐ」という独特の製法からこの名がついたという。

 砂糖の原料となるサトウキビとテンサイトウ。日本の多くで使われているのはサトウキビを精製した上白糖。海外では精製度の高いグラニュー糖の方が多く使われている。上白に比べ結晶が大きくさらさらしていて、焦げにくいため焼き菓子に向いている。

 和三盆の原料となる四国の「竹糖」と呼ばれるサトウキビは、細黍(ほそきび)ともいい、収穫量も限られていて、精製の作業が複雑で寒冷期にしかしか作ることができないという。しかも白下糖から和三盆にする際4割ほど目減りしてしまうほどの歩留まりの悪さの上、原料の追加がきかないという。

 価値あるものほど贈答用に向いている。贈る人への思いが籠った高級和菓子が喜ばれるのだろう。

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monaka

2018-12-07 23:03:21 | 食べることは生きること

 十万石の福久俵最中を頂いた。歳と共に和菓子が好きになっている。一時期にしろ、和菓子の業界にお世話になった縁に感謝している。あの頃もっと和菓子や原料について学んでおけばと後悔しつつ、現在も食品関連の会社に身を置きながら食についての知識も浅く、恥ずかしい思いをすることも多い。

最中の皮を最中種といい、和菓子屋さんによっては問屋から買い入れ自店の餡を入れて商品化するところもある。最中種を専門に焼く店があり、問屋が仕入れて別の和菓子屋に卸していた。十万石の最中種はもちろん自社製造で新潟黄金餅を使っていると品書きにある。うるち米の品種はここ数年かなりブランド化が進み、各都道府県において新しい品種が生まれTVCMも流れる時代だが、もち米についてはあまり知られていないように思う。関東では千葉のヒメノモチ、米どころ新潟ではわたぼうし、こがねもち、東北では宮城黄金餅、岩手ヒメノモチなどを扱っていた。それぞれのしもちに向くものや赤飯にするものなど様々で、和菓子屋によって好みがありお店の品質として選ばれる。

笑い話になるが、営業に出たての頃何も知らず北海道の大手和菓子メーカーの埼玉工場に商談に行かせてもらった際、「弊社の今年のおすすめはこの新潟特選米(わたぼうし)です」と商品開発担当者に案内してしまったことがある。開発課長は笑って「君ね、うちは十勝のブランドだよ」とあきれられてしまった。かえって何も知らない担当者だとかわいがってもらい、取引の商材を増やしてもらったこは懐かしい記憶の一つになっている。

最中の餡は皮種が湿気を含むのを避けるように水気を少なく仕上げることが多いという。その分砂糖の量が多くなり、照りや粘りが強い。十万石の福久俵は販売時に餡と最中種を別にして食べるときに挟むようにしてある。これだと最中種のサクサクした食感が失われることがない。

池の面に照る月なみを数ふれば今宵ぞ秋のもなか(最中)なりける


拾遺和歌集にある歌が最中の由来とされているらしい。宮中の月見の席において白くて丸い餅菓子が出たのを見て「もなかの月」と呼んだとされる。江戸時代になって「最中の月」として命名され円形でないものが出回り、「最中」と呼ばれるようになったという。

FM79.5ラジオリスナーにとって「最中」といえば「monaka」であり、平日10時からの人気番組だ。リスナーのあん(案)が詰まったという意味と、聞き手が仕事の「最中」愛される番組という意味らしい。

十万石のお品書きにある「幾久しく」幸いあれというのもまた美しい大和言葉だ。今年の大河ドラマ「西郷どん」の中盤に、13代将軍家定が篤姫に向かって「そなたと幾久しく」と繰り返し口にしたシーンが印象深い。家定を熱演したのは芥川賞作家となったピース又吉氏だった。

 

 

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紫峰醤油と筑波山

2018-11-21 22:36:36 | 食べることは生きること

富士と筑波の峰清く・・・

高校の校歌は美しい山の景色を唄いだしにしている。「西に富士、東に筑波」と称されるように関東において美しい峰として知られる筑波山。昨日の紅葉狩りも思い切って筑波まで足を延ばそうかと考えていたが、道のりの長さから断念し長瀞に出向いた。筑波周辺も今頃紅葉の見ごろを迎えているのだろう。筑波山の雅名を「紫峰」といい、山肌が夕日に照らされる様子が紫に見えることに由来する。別名ではなく、雅名というところがまた格別に趣がある。

昨日思いもよらず、近所の家から紫峰醤油を頂いた。先日旅行の際、バス乗り場まで送迎したことの御礼だと出向いてくれた。かえって高級醤油を頂くことになり、恐縮してしまったが昔の記憶もよみがえり、ことのほかうれしかった。以前食品卸に勤めていた際、この紫峰醤油を扱っていた。15年以上も前のことだ。直取りではなく、大手問屋の帳合であったが埼玉でも引き合いがあり、在庫も持っていた。老舗の醤油だけに、そのころからメディアにも取り上げられていた。製造は茨城県土浦市の柴沼醤油。関東の三大醤油醸造地は野田、銚子、土浦と言われている。野田といえばキッコーマン。銚子はヤマサとヒゲタが有名だ。

 江戸時代に普及した醤油は上方中心であったが、江戸の人口が増え、大市場に成長すると、菱廻船や樽廻船が江戸と大坂を結び、「下り醤油」と珍重された。上方から下って来るものは「下りもの」として高級品扱い。反対に江戸周辺のものは「下らないもの」として下級品扱いであったという。諸説あるようだが、すし屋の用語で醤油を「むらさき」と呼ぶのは筑波山の雅名である「紫峰」に由来するそうだ。また醤油のことを上品にいう時は「おしたじ(御下地)」と呼ぶようだがこれも「お常陸」から転じたものだという。刺身のことを「御造り」漬物のことを「おこうこ」と呼んだりもする。醤油を表す印に亀甲が用いられているのは土浦城の別名「亀城」によるものだとも言われている。「キッコーマン醤油といえばすでに世界的食品メーカーだ。

寿司や醤油といった日本の食文化は世界に知られるようになった。その歴史について知ることで味もより理解できるようになるだろう。

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