皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

戦艦「三笠」④~皇国ノ興廃コノ一戦二アリ 日本海海戦

2019-10-27 22:40:42 | 史跡をめぐり

 明治三十八年(1905)5月27日午後1時39分、連合艦隊主力は南西方13kmに2列縦隊のバルチック艦隊を視認します。東郷平八郎司令長官は敵の左側列先頭から撃破しようと艦隊を西進させつつ、1時55分

「皇国興廃在此一戦各員一層奮励努力」(皇国の興廃この一戦に有り 各員一層奮励努力せよ)のZ旗信号を掲げます。後に難事に当たり最後まで全力を尽くし成功を期する旗印として慣用されるようになりました。

日産自動車の旗艦スポーツ車「フェアレディーZ」もこの旗に由来するといいます。開発にあたり当時のアメリカ日産社長がスタッフに奮励努力を促す意味でZ旗を贈ったという逸話が残っています。

午後2時2分進路を南西に転じて左舷反航の態勢をとり南下近接を開始します。「三笠」艦橋の東郷司令官は、皇太子殿下から拝領の名刀「一文字吉房」を左手に急速に近づく敵艦隊を見つめ、敵の先頭を圧迫する転舵の好機を待ち、2時5分敵との距離8kmにおいて左大回頭、「東郷ターン」の命を下すのです。

ロシアのロジェストウェンスキー中将は、反航するかに見えた日本艦隊主力が眼前にて突如大変針を開始したのを見て、その弱点に乗じて砲撃を開始します。先頭に立つ旗艦「三笠」には多数の砲撃が集中し、林立する水柱に囲まれました。

 「三笠」は砲撃に耐えて進み、2時10分ロシア艦隊との距離が6.4kmになったところで一斉射撃を以て猛反撃に転じ、壮絶な主力決戦となりました。戦闘開始1時間後、ロシア戦艦「オスラービア」は連合艦隊の集中砲火を浴び、出火し沈没寸前の状況に陥ります。ロジェストウエンスキー中将乗艦の「スワーロフ」さえも大火災となり戦列を離脱。その他のロシア艦隊が次々と被弾し勝敗が決します。

 戦艦4隻、巡洋艦8隻を基幹とする連合艦隊96隻は、ロシア側の戦艦8隻、巡洋艦6隻基幹とする艦艇29隻からなるバルチック艦隊を対馬沖にむかえ討ち、5月27日28日の日本海海戦においてそのうち19隻を撃沈、7隻を拿捕し主力の艦隊を全滅させます。ロシア側の戦死者は4,545人捕虜は6,106人にのぼり、他方日本側の戦死者は116名であったといいます。

 このように日本海海戦は日本側の圧倒的勝利に終わり、その戦果は海戦史上例を見ないほどの大きさでロシア側は戦意を失い、日露戦争は終結に向かい、結果アメリカの仲介でポーツマス講和条約が締結されまます。

 その歴史的意義は産業革命後競ってアフリカ、アジア地域に進出し、強大な軍事力を持って地域の国々を支配し国土財産を収奪しながら植民地化していった欧米列強の支配から抜け出す希望の光を、アジア、アフリカ地域の国々に与えたことだとされます。

 インドの独立運動家、後の初代首相ネルーは日本の勝利に対し、血が逆流するほどの歓喜を覚え、インド独立のために命を捧げる決意をしたと自伝に残しているそうです。

 ロシアに抑圧されていたフィンランドでは日本海海戦における日本の勝利に感謝し、「東郷ビール」が製造され、同じくトルコでは日本の勝利に国民が熱狂し、生まれてきた男子に「トーゴー」の名をつけることがあったといいます。

 

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荒川久下堤決壊跡碑

2019-10-21 22:44:43 | 史跡をめぐり

 令和元年(2019)10月19日関東から東北地方を襲った台風19号は各地に甚大な被害を出し、多くの犠牲者を生みました。今回の災害に際し亡くなられた方々に哀悼の意を捧げるとともに、現在尚避難されている方を始め自宅等被害を被った多くの方にお見舞いを申し上げます。

 ここ北埼玉においても荒川、利根川など主要大河川が危険水位を超え、19日当日は避難勧告から、避難命令が発令され、各地の小中学校などが避難所として開設されました。高度成長期に生まれ、戦後の混乱を知らない世代ですので、この地で生まれ育った中で自然災害にて最寄りの学校が避難所として開設されたのは初めてのことでした。

普段自分が利根川荒川の河川に囲まれた行田の地で暮らしていることは、歴史を学ぶ上でも大事なことだとは認識しておりましたが、こうした自然の猛威の前で人の暮らしがいかにもろいものであるのかを実感します。一週間が経過し、実際に荒川の堤を自分の目で見に行ってみました。熊谷市久下の荒川左岸には、昭和22年(1947)のカスリーン台風の際決壊した場所にその歴史を伝える石碑が建っています。

昭和22年9月15日カスリーン台風による洪水でここ熊谷市久下先にて荒川の水が堤防を越え決壊します。その濁流は下流の鴻巣市で決壊した水と相まってはるか東京まで達していました。いたるところで堤防の決壊、崩落が見られ多数の死者行方不明者を出しました。また家屋の流出、倒壊、浸水など付近一帯に甚大な被害を与えます。

カスリーン台風についてはここ荒川よりもむしろ利根川の流域の方が被害を拡大させています。翌日16日未明に埼玉県北埼玉郡東村(現在の加須市大利根区域)で利根川の堤防が決壊してしまいます。この場所は江戸期に人工的に開削された地点で新川通と呼ばれる直線的な流れであったため、比較的当時は洪水にたいして楽観視されていた部分があったといいます。

 しかし実際には上流の遊水地が当時の開発で消滅し、流れが新川通に集中し、下流で渡良瀬川と合流する構造的な問題を抱えていたといいます。濁流は南にむかい、栗橋、鷲宮、幸手、久喜と埼玉県東部の町を次々にのみ込んでいきました。当時は決壊した水の流れる先が不明であったため、各地で避難が錯綜し大混乱であったといいます。

 東京都まで達した濁流は葛飾区と三郷市の境にある小合溜井とその桜堤によって堰き止められます。これが決壊すれば東京葛飾区は壊滅的被害を被ると判断した東京都知事は埼玉、千葉県知事と協議の上、江戸川右岸堤を破壊し江戸川へと水を逃がすことに決定。しかし強固な堤はなかなか破壊できず、そうこうしているうちに小合溜井の桜堤が決壊。江戸川区小岩付近まで水没してしまったといいいます。

今回の台風19号においても長野県、福島県等で甚大な被害が出ており、また県内においては東松山にて多くの床上浸水による家屋の被害が報道されています。ダムの有効性を報じる一方、遊水地、地下貯水池の役割などにも言及されています。

土木技術が進化しスーパー堤防といった呼称も用いられる現在においても、今回の台風で河川の氾濫をすべて防ぐことができませんでした。限られた予算のの制約において有効な治水のを整備するには、過去の歴史に学ぶところは多いと思います。水をためる、堰き止める、一方で万が一の際には広く水を逃がす。こうした発想が渡良瀬遊水地を作り、そのもとになったモデルが行田市(忍藩)の中條堤であったといいます。

 歴史は繰り返す

 賢者は歴史に学ぶ

 こうした言葉が更に生かされるべき自然状況を迎えているように思います。

 

 

 

 

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戦艦「三笠」③~日露戦争の経過

2019-10-09 22:30:42 | 史跡をめぐり

ロシアは満州に駐留した軍隊を撤退させるどころか、旅順、大連の防備を固め朝鮮半島に対する野望をあらわにしてきました。朝鮮半島は日本の安全保障上最重要地帯であり、ロシアに対し満州での権益を認めるとして粘り強く交渉しましたが、極めて不誠実な回答を繰返しさらに兵力を増強したことから、日本は明治三十七年(1904)ロシアとの国交断絶を通告し、日露戦争が勃発します。

 

日露戦争に勝利するためには日本海周辺の制海権を確保し、満州で戦う陸軍への補給物資を安全に確保することが肝要で、そのため旅順方面のロシア太平洋艦隊を先制攻撃する必要がありました。

 仁川冲海戦ではロシア旅順艦隊に大きな被害を与える一方、緒戦における旅順口閉塞作戦では、ロシア艦隊の航路を断つことに失敗します。

同年8月10日旅順口から出撃してきた旅順艦隊を確認した連合艦隊は、その背後に回って砲撃しますが、旅順艦隊もウラジオストックを目指して南下し激しい砲撃戦となります。ロシア旗艦「ツエザレウィッチ」号は被弾し航行不能となり多くのロシア艦は旅順港に引き返します。一方「三笠」にも敵の砲撃が集中し、敵弾により海軍少佐伏見宮博恭王殿下が負傷、戦死者33名の大きな被害を受けました。(黄海海戦)

 一等巡洋艦3隻を主力とするウラジオ艦隊は、対馬沖周辺、また津軽海峡を抜けて伊豆諸海域まで出没し輸送船などを拿捕、撃沈し大きな脅威となっていました。対馬東方海域を哨戒中の第二艦隊は8月14日南下するウラジオ艦隊を捕捉、5時間に及ぶ砲撃船の末「リューリック」号を撃沈し、ウラジオ艦隊を撃滅しました。(蔚山沖海戦)

明治三十七年(1904)10月ロジェストウエンスキー中将を指揮官とする(ロシア)第二太平洋艦は苦戦を強いられている旅順艦隊を支援するためバルト海リバウ港を出発しアフリカ西岸沿いを廻って大西洋を南下します。翌明治38年(1905)に入ってインド洋を東航しベトナムを経由し、日本海へと向かいます。またロシア政府は旅順艦隊が連合艦隊に壊滅させられたことを知って、増援のため旧式軍艦5隻を基幹とする第三太平洋艦隊を編成しスエズ運河を通ってベトナムで石炭などを補給し、第二艦隊と合流します。

このロジェストウエンスキー中将率いる第二、第三艦隊を総称し、出発地のバルト海に因んで日本側は「バルチック艦隊」と呼びました。

ロシアの旅順艦隊、ウラジオ艦隊を壊滅し、制海権を握った連合艦隊は呉、佐世保などに帰還し被弾の修復を図って弾薬を補給し、再度海洋へと戻ります。バルチック艦隊のシンガポール経過を知った日本艦隊は計画に沿ってウラジオストック沖に機雷を沈め、対馬沖に哨戒艦を配備し、バルチック艦隊を待ち受けます。

5月27日五島列島西方海域を哨戒していた仮装巡視艦「信濃丸」は海上はるかに東航する白灯を発見。バルチック艦隊に随伴する病院船と判明し、連合艦隊に「敵艦隊見ユ」の警報を発信します。警報を受信した巡洋艦「和泉」はバルチック艦隊後方9キロで接触を保ち、進路、速度、陣形などの情報を刻々と連合艦隊へと報告します。

 連合艦隊は「敵艦隊見ユルトノ警報二接シ連合艦隊ハ直チニ出動コレヲ撃滅セントス 本日天気晴朗ナレドモ波タカシ」

の電報を発信し沖の島北方に進出します。当日天候はかすみ、視界は十分ではありませんでしたが、「和泉」の報告により敵情を詳しくつかんでいたとされます。一方のバルチック艦隊は接触する「和泉」を発見し陣形を戦闘隊形として航行していました。正午に至りウラジオストックに向かうべく北北東に進路を変え水雷攻撃の危険があると判断し、ロジェストウエンスキー中将は4隻による横隊列の進行を指示します。しかし隊形を変更後後続艦が進路を誤ったためロシア艦隊は2列縦隊となって、乱れた隊形のまま待ち構える連合艦隊へと突っ込んでいくことになりました。

短い電文に当時の戦況をよんだ「本日天気晴朗ナレドモ波タカシ」。この一文は銘文として語り継がれています。起案したのは連合艦隊主任参謀秋山真之でありました。

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戦艦「三笠」②~当時の世界状況をよむ

2019-10-08 22:32:04 | 史跡をめぐり

 18世紀後半の産業革命以降、商工業が急速に発展し安い原料を確保するとともに大量に生産した製品を輸出する市場を求めて、欧米諸国は次々とアフリカ、アジア方面に進出するようになった。また科学技術の進歩に伴い軍事兵器が発達したことにより、欧米諸国は産業の振興に遭わせて強力な軍事力を保持し「列強」と呼ばれる世界の強国として知られていくようになる。列強に対抗する力を持たないアフリカ、アジア、アラブ諸国は強大なこれらの国々の前に服従するしかなく、次々とその支配下に入れられてしまう。

 19世紀になると英、仏、蘭などの列強の国々は東南アジアにその矛先を向け、ベトナム、カンボジア、インドネシアなどを支配するとともに、アヘン戦争に敗れた清国から租借地を獲得する。またロシアは義和団の乱に乗じて満州を占拠し、朝鮮半島にも手を伸ばし南方への領土拡大を企てる。

 一方日本国は朝鮮の自主、自立を目指す独立派を援助し、自国の属国と主張する清国との対立を迎えていた。日清戦争の開戦である。列強各国は清国有利との見方を有していたが、日本が勝利し、下関において日清講和条約が締結され、台湾、遼東半島の割譲、賠償金の支払いが決定する。しかし露、独、仏の三国は遼東半島を日本が領有することは、東洋の平和に有害であると主張し、清国に返還するよう強硬に主張するここになった(三国干渉)。

 軍事力で対抗できない日本はこれに従うことしかできず、旅順、大連など地形的要所を含む遼東半島を返還し、「臥薪嘗胆」を合言葉に国力の増進と軍事の増強をはかることとなった。

 ロシアは三国干渉後、政治、経済、軍事のすべての面で朝鮮に対する影響力を強め、着実に支配地域の拡大を図っていった。

時の山本権兵衛軍務局長(のちに総理大臣)は海軍大臣西郷従道(隆盛の弟)を補佐し人事の刷新に着手し、海軍が国防の要であることを主張しながら、海軍拡張計画を軌道に乗せていった。その傑出した功績から「海軍の父」と称される。

 日露関係が険悪化し、一触即発の情勢に陥ると、明治三十六年(1903)海軍第一、第二艦隊を以て連合艦隊が編成される。

日露戦争開戦直前、先任序列を無視して舞鶴鎮守府長官であった東郷平八郎中将を連合艦隊司令長官に抜擢している。この英断が日本の勝利につながったといわれている。

兵力は戦艦6隻、一等巡洋艦6隻を主力とし、二等三等巡洋艦12隻、駆逐艦、水雷艇などを加え、総排水量233,200トンであったという。これに対しロシア太平洋艦隊は戦艦7隻巡洋艦7隻を主力とし、砲艦、駆逐艦等を加え総排水量191,000トン。

 ロシアの軍事的脅威が目前に迫り日露、日英いずれかと条約を結ぶべきとの国論が割れる中で、政府は、「日本の独立を保ち国益を守るには英国と同盟を結ぶべき」との主張を採用した。明治35年(1902)に日英同盟締結の際の外務大臣は小村寿太郎であった。

 

 

 

 

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戦艦「三笠」①~世界三大記念艦として

2019-10-08 21:41:40 | 史跡をめぐり

 戦艦「三笠」は明治三十五年(1902)イギリスのヴィカーッス造船所にて建造されています。

 日露戦争における日本海海戦ではロシアバルチック艦隊を対馬沖で迎え討ち、東郷平八郎司令長官の連合艦隊旗艦として常に先頭に立ち、海戦史上例を見ない圧倒的勝利を導いた銘艦です。

 日露戦争後、佐世保に入港した際、火薬庫の爆発により沈没したものの、引き揚げられ現場復帰し、海上防衛警備の任務を全うします。大正十二年(1923)現役を退き、廃艦になることが決まりましたが、ワシントン軍縮会議において記念艦となることが認められ、大正十五年に横須賀の地に保存されました。

 

昭和二十年(1945)太平洋戦争に敗れて連合国が進駐し連合司令部の命令により「三笠」は艦橋、マスト、大砲、煙突など上部構造物のすべてが撤去され荒廃します。昭和三十年(1955)に至り国内外から記念艦「三笠」の勇姿を取り戻そうとする声が高まり多くの人々からの募金、政府による予算、さらにはアメリカ海軍などの支援によって、昭和三十六年(1961)に元の姿を取り戻すことになります。

ねん

「三笠」は英国「ヴィクトリー号」、米国「コンスティテューション号」と共に世界三大記念艦として広く知られ、平成二十八年(2017)四月二八日に日本遺産にも認定されています。尚、同時期に埼玉県内初の日本遺産認定となったのが行田市の足袋蔵でありました。

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