皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

南天の葉を添えて~節分に赤飯を

2020-02-06 23:39:57 | 食べることは生きること

 

 年四回迎える節分でも立春前に限っては豆をまき、赤飯を炊いて祝う。近頃恵方巻が流行りだして久しいが私が子供の頃には少なくともここ北武蔵においてはそうした風習はなかったように思う。節分にまく豆は摩滅から転じたもので撒くことで邪気を払い、一方福茶(富久)として柚子、梅などと混ぜて飲むことが習わしだった。

 節分や立春は新春を祝う行事であることから赤飯を炊くことが習わしだった。少なくとも我が家では。今年は祝いの赤飯に添え物として南天の葉を乗せていた。音が南天ということから『難転』に通じ、縁起の良い木として鬼門または裏鬼門に植えることがあるという。福寿草と共に『災い転じて福となす』ともいわれる。

我が家の庭にも二個所に南天の木が育っている。いつだれが植えたのかはわからない。恐らく父の前の代であろうと思う。残念ながら私は社家の家系を継いだ叔父も祖父の顔も知らずに育ってしまった。しかしこうして庭の木々を受け継ぐ中で、代々引き継いできた社家としての在り方を肌で感じるようになっている。

南天の花期は初夏で茎の先端から上に伸びて花を多数つける。晩秋から初冬にかけて赤または白い小さな果実をつける。庭に育つ南天は紅白それぞれの一種ずつの木だ。実の色までも紅白揃い縁起物のようだ。

 生け花の花材になる他に葉と果実は薬用にも用いられることがあるという。

神社参道には南天の木と本榊が交わるように立っている。青々とした常緑の榊は神域にふさわしく日々夕日に照らされて南天の葉とともに氏子区域の暮らしを見守っているようだ。

 

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川越時の鐘と薬師神社

2020-02-06 20:38:50 | 神社と歴史

 川越市は埼玉県を代表する城下町で、昨年訪れた観光客は年間730万人を超え、蔵造りの町並みは外国人観光客をも魅了してやまない。その中心地にそびえたつのが市指定文化財となっている時の鐘で、残したい日本の音風景100選にも選ばれているところだ。

 江戸時代の寛永年間(1624-44)川越藩主酒井忠勝によって建てられた時の鐘は何度か火災で焼失し、現存の鐘楼は明治時代の川越大火(1893)の翌年に再建されたもので、その際晩年を川越で過ごした渋沢栄一による資金援助や明治天皇からの下勅金などもあったという。まさに埼玉の誇る歴史的建造物である。

 

川越の象徴ともいえるその時の鐘を鐘楼を潜り抜けた奥に薬師神社が鎮座している。鎮座地の幸町(さきわいちょう)は以前は『多賀町』と称していたという。これは江戸時代桶屋が多く住む職人町であった名残だとされる。『箍町』と呼ばれ後に多賀町と改めた歴史がある。

元町の市場の神(市神)として常陸国から元和年間に勧請されたという。その後市場内が手狭となったことから、元和九年城主酒井忠勝によって現在の地に遷座され、天台宗の寺となったが神仏分離によって寺が廃寺となり薬師堂は薬師神社と改めて現在に至るという。御祭神は大己貴命、少彦名命。内陣には薬師如来像を安置している。川越大火の際にも薬師象のみは運び出されたという。

元来薬師如来堂であったことから、病気平癒の信仰があるという。特に眼病に霊験ありとされ、神恩に感謝する人々は『め』の文字を絵馬にして奉納している。

末社の稲荷神社は正一位出世稲荷大明神と呼ばれ出世開運の御利益があり信仰を集めている。氏子の多くが川越繁華街にあり屋敷神として稲荷社を祀っている。こうした風景は北武蔵にも多く残っているものである。

 

幾度となく火災にみまわれながら、時の鐘は再建され、現在では川越の象徴となっている時の鐘。薬師神社の神門の様な佇まいで、多くの観光客を今日も迎えている。

 

 

 

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