忍城の北西に広がる持田地区はもとは糯田と書いて、上、中、下地区と菅谷に分かれていた。上、中は剣神社、下は久伊豆神社(大宮神社)菅谷は八幡神社をそれぞれ村社として祀る。当社は上持田地区の剣神社の氏子区内にあり、字名は「竹ノ花」と称す。いまでも近くの忍川にかかる橋に「竹ノ花橋」と名が残っている。
持田は忍川の用水が水田よりも高かったため水利に恵まれた反面、治水には苦労した。同じ竹ノ花地区にある諏訪神社の勧請は古く建久(1190)頃と伝わり成田泰時は延徳二年忍城造営にあたり、城鎮守として竹ノ花から城内へと勧請していることから、忍城下よりもここ竹ノ花地区の方が早くに開けたいたことがわかる。
当社は持田の風雨火水を司る大自在天神すなわち菅原道真公を祀ったものと考えられる。現在の一間社流造りの本殿は昭和36年に立て替えられたものでそれ以前の造営については不明である。氏子は剣神社の境内外末社として当社を祀り、年に一度天神講として祝う。古くは子供のみで祭りを運営し、「子供組」の名残を残していたという。
年長のものが親方として役を受祭事を執り行っていたのは明治期以前には多くの神社で見られたそうで、村の中での共同体の形成を行い世代間で集団形成をする役割を担っていたものと考えられている。現在では自治会の青年部がその役割を担っているが個人主義の進行と少子化によって多くの地域がそうした役割を消失してしまっている。
戦後70年で日本の国力が大きく損なわれてしまった要因のひとつがこうした地域の世代間交流の無さにあると思われる。
地方の神社にはこうした共同体形成の役割が求められているだろう。