幸手といえば桜の名所権現堂があまりにも有名で、町全体が桜のイメエージで施されているがそもそも「幸手」とはアイヌ語で乾いた原野を語源とするともされるが詳しくはわからない。日本武尊の東征の際「薩手ヶ島」に上陸したとの説もあるが薩手が転じて「幸手」となったと考えられている。また全国の市町村で「幸」の字が表記されるのはここ幸手市だけだそうで、「日本一幸せな町」を目指している。
江戸期からの日光街道の宿場町で、権現堂川の水運と相まって近郷の中心地であったという。
幸手駅そばの一色稲荷社は幸手城の跡地と考えられている。幸手城は下総古河公方足利成氏の枝城で越後上杉に対する備えとして一色氏に守らせたものと伝わる。天正十八年小田原落城とともに廃城となった歴史を持つ。
古河公方足利氏の家臣一色直朝は天文年間足利晴氏に従いその子義直は小田原落城後は徳川家康に仕えている。一色氏の幸手城はその姿を今に伝えることはないが、館の位置から南東(巽=裏鬼門)に祀った稲荷社がここで陣屋稲荷または一色稲荷として現在に伝わる。
駅から旧日光街道に出る途中に当たり、多くの幸手市民が今日もお稲荷さんの前を通りそれぞれの目的地へと向かっていた。