栢間は元荒川左岸の大地とそれに続く低地に位置する。菖蒲、久喜、桶川に隣接する場所で古くは武蔵七党野与党の本貫地であった場所で古くは「萱間」と書いた。当社参道の入り口の南西にある天王山塚古墳は埼玉県の指定史跡であり、行田市の「埼玉古墳群」に連なるものと考えられていて、武蔵国造笠原直使主(かさはらのあたいおみ)との関連があると推測されている。
社伝によれば当社は景行天皇の御代創建で「延喜式」神名帳に埼玉郡四座の一つとして記されている「宮目神社」は当社をさすとされる。古くは大宮目神、天照大神、豊受大神の三柱を御祭神としたが、天照、豊受の二柱と改め、伊勢神宮の分霊であるがため神明社と称するようになったという。
現在の本殿は文政元年(1818)建立で神明造の本殿が並立している。
特色ある神事として「鎮火祭」がある。風土記稿によれば「正月十四日筒粥の神事を行いて年の豊凶を占う」とある。
境内の松の巻束を用意し斎場にて点火。鎮火祭の祝詞を奏上する。祭典終了の後鉄鍋に米水を入れ、麻で結んだ葦を十八本米の上において斎場にて炊く。炊きあがった粥は翌日まで安置される。翌日に境内に若い衆が集まり、焚火を囲んで「ワッショイ、ワッショイ」ともみ合いながら火の周囲を回り、手締めを行う。その翌日宮司が大祓奏上して鍋を祓うと、鍋から葦を取り出し広げ中に入った米の割合で十七種の作物の吉凶を占うのだという。鍋に残った粥も万病に効くと近所の氏子がもらい受けるそうだ。
周りを囲む社叢は県の天然記念物にも指定されている。広大な社叢に守られながら古くからの神事を今に伝えている式内社である。