新宿という地名は各地にあり、既存の宿場に対して新たに宿場が作られた場合につく地名であるという。また読み方も様々で、東京始め多くは「しんじゅく」と呼ぶが忍領の南、北足立郡鴻巣市旧吹上町では「しんしく」、川越藩においては「あらじゅく」と呼ぶ。日本の地名は読みも難しいものだ。新宿駅に初めて訪れたのは高校1年の時。ちょうど三十年前のことで、駅のホームで記念写真を撮ったことをよく覚えている。紀伊国屋書店で本を買い、知識ではなく都会の空気を吸い込むために埼京線に乗ったのが昨日のことのようだ。
紅葉の色付き方も北武蔵とは半月違いのようで、まさに銀杏の葉が散り始めた頃だ。東口を出てアルタ前を過ぎ少し歩くと朱色の美しい社殿が目に入る。花園神社は新宿の総鎮守として内藤新宿における重要な位置を占めてきた神社であると御由緒にある。
元禄十一年(1698)信州高遠藩主内藤氏の下屋敷に甲州街道の宿場として内藤新宿が設けられたのが「新宿」の始まりという。更に前には内藤清成は家康の小姓として使え、東照公入府に先立ち後北条氏残党に対する警備のため、甲州街道と鎌倉街道が交差する新宿二丁目付近に陣を敷いたという。この働きが認められ内藤清成は新宿一帯を拝領し、清成が率いた鉄砲隊は慶長七年(1602)に伊賀組鉄砲百人組として大久保に配置され、百人町の名のもとになったという。
古来より稲荷神社と称したが、享和三年(1803)内藤新宿下町より壮麗な額が奉納され、花園の名称が見えるという。これは神社の社地が元尾州家の花園であったとの伝承に由来するそうだ。文化文政期の古文書等に花園稲荷神社と記され、昭和四十年の社殿建設に際し花園神社と改名している。この時に合祀されたのが大鳥神社で、その昔日本武尊が東征の折、武蔵国南足立郡花又村に立ち寄り、没後神社が造営されたという。江戸期において日本武尊の御命日にあたる十一月酉の日に例祭を行い『酉の市』と称した。開運招福を信仰とし、新宿の発展と共に山の手随一の賑わいになったという。
靖国通りに面した鳥居の脇には唐獅子像が奉納されている。江戸期高遠藩内藤家の下屋敷だった新宿御苑は屋敷内で唐辛子を作ったとされている。『新編武蔵風土記稿』にもその様子が記され、新宿から大久保にかけての畑が真っ赤に染まったといわれている。その縁か文政四年(1821)に氏子による唐獅子像の奉納がされており、狛犬の代わりに参拝者を迎えている。
境内中ほどに建つ石灯籠は寛政四年内藤新宿の名主高松喜六が代表となり旅籠一同が災禍消除を祈って建立したものと言われている。火事と喧嘩は江戸の華と謡われるように幾度も火災に見舞われながら社殿を復興させ、戦後も大都会東京の交通の要として発展した新宿の町。この街を見守るのは高くそびえる東京都庁の展望台ではなく、美しく色付いた樹齢300年を超える銀杏の木と朱に輝く花園神社のほうだったのだろう。
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