桜も満開を過ぎて、桜吹雪も舞っている。昨年に比べ肌寒い日も多く、やや花もちが良かったように思う。
皿尾城公園の桜も地元の植樹事業によって50年以上前に植えられたことは何度か書いているが、公園や自治会館と併せて、貴重な社会資本であると思う。地元の人だけではなく、通りかかる人、散歩に訪れる人、神社に参拝に来られる方など、多くの人々にとってこうした景観は誰もが享受する日本の美しい風景であり、心の財産になりうる。昔見た原風景は何年たってもその人の心に残るのだ。
コロナ禍となって三回目の春が過ぎようとしている。未知なる疫病との対策の中で、多くのことが顕在化している。コロナだけでなく、私たちの生活は不確定要素であふれている。同じように季節がめぐり、日々同じ生活が遅れることは実は先人たちが築き上げてきたものに頼っていることで、かつ実は脆い砂上の楼閣
のようなものなのだ。現に都市への集中、格差の問題、際限のないグローバル化等社会的矛盾はコロナに関係なく、問題提起されていたはず。
コロナの後の未来は都市集中型か分散型社会へと移行するとみられている。これは人口減少社会を迎えた日本における特有の問題ではなく、SDGsに見られる持続可能な共生社会へのシフトとみてよいのだろう。繰り返しになるが人口は減っている。しかも急激に。それぞれの地域が持つ固有の価値や風土を見直し文化的多様性を継承しようと関心が集まっているのだ。
ここ行田においてもおもてなしの心を花で表現しようと『花手水』が始まってすでに三年目を迎えている。『ローカル指向』をうまく表現しながら発信することが地域にとって重要なことは多くの人がすでに知るところだろう。
その中で神社が有する社会的役割は何だろうと問う。もちろん信仰や共同体(まち・むら)の中心としてそこに『ある』ことそのものが存在理由ともなる。その中でも『鎮守の森』は地域と自然、信仰が一体化した場所として『社会資本』としての存在と認識できるだろう。
杜には桜もあれば御神木もあり、かつそうした木々に対して人々が思いを寄せることが肝要だろう。
『鎮守の森』は複雑化しなおかつ経済的要因も絡んだ具体的な問題を即座に解決するということはあり得ない。しかしそうした問題を解決し、未来へと導く想像力を育むところなのだと思う。すぐに答えは見つからない。しかしヒント与えてくれるところなのだろう。だから人が集い、祭りが行われ、人生の儀礼に際し人々が願いや感謝を寄せていく。
人あっての社会。地域社会と共にある神社の意味を改めて広めていきたいと思う。
倉本聰氏は「いつから経済と科学は、こんなに偉くなったか」。そうNHKGの「百年インタビュー」で語っていました。
東の地から、挨拶させていただきます。お邪魔しました-。
「いつから経済と科学はこんなに偉くなったのだろう」確かにそう感じます。一方で不便を受け入れながら、人との繋がりや歴史の紡いできた価値観を大事にしたいとおもいます。便利さや目先の利益にへつらうことなく、凛と背筋を伸ばして生きて行きたいと思っています。もちろん言葉だけにとどまらす、行動で示して行きたいです。是非ブログのほうも、引き続きよろしくお願いいたします。