長大道とよばれた県道303号線皿尾、池上間の道は昔は今のように直線ではなく、くねった道であった。また長大道の並行して走る皿尾の旧駒形から池守に伸びる道は現在農免道路と言われ、古くは『行田道』と言われていた。道に沿って小川が流れていて、「ひろって」と呼んでいた。恐らく「尋手(ひろて)」であって手をひろげて伸ばしたくらいの川幅だったことに由来するのだとおもわれる。
その小川に沿って行田道を行くと戦前には天神社があった。皿尾から星宮小学校まで通う子たちはこの天神様で一休みするのが常だった。田んぼの中の小島のような天神様だったので「沖の天神」と呼ばれていた。
その昔、この天神社には一人の尼さんが住んでいた。行田道も、長大道も広い耕地を通る一本道であったことから、夜は暗く、寂しいみちであったことに違いない。いつしかこの道を一人歩くと「坊主」にされてしまうといふ噂が池守の村に広まった。
ある青年が「そんな馬鹿なことはない、俺が試してやる」と言って、丑三つ時に仲間の後押しを背に、池守の家を出て一人かすかな月明りを頼りに行田道を駒形方面に歩いて行った。あたりはしんと静まり返り、ただ自分の足音だけがひたひたと聞こえてくる。左手奥には忍城の森が黒く見えるばかりだった。
すると皿尾のほうから誰か歩いてくる気配がする。近くの大きな木に隠れ様子をうかがうと、人影は三十路ばかりの女であった。すぐそばには小川(ひろって)が流れていて、柳の木が茂っていた。柳の木の根元に杭が出ていて、女はその杭の頭に、小川の中から藻をすくってかけているではないか。幾度かかけるとなんと杭は「赤ん坊」になった。女は赤ん坊を抱きあげ、背負うと歩き出した。
その青年は、「あの女は化け物に違いない、あるいは狐狸の仕業ではないか」と思い、木の陰から飛び出すと「やい、どこへ行く」と大声で叫ぶと、女は「親の病気を知らせに」と答えた。青年は、「ウソをつけ。俺は一部始終を見ていたんだ。化けの皮をはがせ」と女の肩に手をかけると、勢い余って女は転げ、赤ん坊は女の肩から落ちてしまい、頭を打って死んでしまった。
女は泣きながら、「大事な赤ん坊を死なせては家には帰れない。かくなる上は、お奉行様に訴え出る」と言い出した。それを聞いた青年は、先ほど見たのは暗がりで見ていた自分の見間違えではないかと、初めて自分を疑った。赤子を殺した人殺しの罪なので、訴えられれば打ち首になってしまう。急に恐ろしくなってしまった青年は、「そうだ、お坊様になれば罪が消えるに違いない」ととっさに思いつき、近くの沖の天神に駆け込むと、尼さんに事の顛末を話して頭を丸め、僧にしてもらった。
そのころ池守の仲間たちは、意気込んで出て行った青年がいつになっても帰らないので、夜明けを待って探しに出た。しかし行田道も長大道もなんの変りもなかった。もしやと思い、沖の天神に出向き「昨夜だれか来なかったか」と尋ねると、奥のほうに昨晩勇んで出かけた青年が、頭を丸めて神妙な面持ちで座っているではないか。
この話は、池守中はおろか、近郷中に広まり、行田道を一人歩きするものはいなくなったといふことである・・・
「忍の行田の昔話」より
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