幸手市権現堂堤は桜の名所として知られるが、その歴史は江戸時代天正年間に利根川の支流である権現堂川の堤防として築かれたものだという。かつては6kmに渡って約3000本の桜を誇り、大正期にはすでに桜の名所として賑わっていた。
明治九年(1876)には明治天皇が東北行幸に際に立ち寄られたことから行幸堤とも呼ばれるようになった。
権現堂川は利根川の流路変更に伴い明治の終わりには締め切られ廃川となりそのため堤防は荒れ果て植えられていた桜も戦後の混乱や薪燃料のため多くが伐採されてしまった歴史があるという。
昭和二十四年(1949)以降旧権現堂川堤防の内、中川の堤防として残ったところにソメイヨシノを植樹したものが現在の権現堂桜堤であるという。平成二十年(2008)には埼玉県営権現堂公園として整備されているが、その公園の中には権現堂を見守る順礼母娘の碑が建てられている。
淳和二年(1802)の大雨によって弱っていた権現堂川の堤は修復してもすぐに切れてしまうような有様であったという。
ある時堤奉行の指揮の元、村人たちは必死に堤の改修工事にあたっていたところ、夕暮れ時に巡礼の母娘が通りががった。工事の様を見た母は「こう度々堤が切れるのは龍神の祟りに違いありません。人身御供(ひとみごくう)をたてねばなりません」と口走った。すると堤奉行は「誰か人身御供になるものはおらぬか」と見渡すと皆顔を見合わせるばかりで進み出るものはいなかった。すると「人身御供を進めたものを立てよ!」という声が上がりました。
順礼母はこの声を耳にすると「私が人柱になりましょう」と申し出ると念仏を唱えて渦巻く水の中に身を投げてしまいます。これを目にした娘もそのあとを追ったといいます。
するとそこから水が引き、難工事だったものが無事に完成することとなったといいます。
昭和十一年に建てられたというこの巡礼の碑が伝えようとしたものはなんだったのでしょうか。
利根川流域には治水を廻る人柱伝承が多く残っています。大利根町鷲神社、加須市外野川圦神社など流域の神社にはその霊を慰めるために神社が勧請されたと伝わるところも数多くあります。
個人の尊厳よりも、共同体としての存続が優先された時代。人柱とは神に対する最上級の供え物であると考えられ、人の命を捧げてまで災難を沈めようとした当時の人々の考え方歴史を伝えようとしたことが分かります。
戦後現在の憲法ができ個人の尊厳が守られてきた時代にあっては考えられないことですが、翻って現在の新型ウィルスの蔓延が止まらない時世においては学ぶべき事象のように思います。高度成長期以降生まれ育ったた私たちの世代は、有事に対する立ち位置がわからない。覚悟が足りないように思います。だから上からの支持を待っている。保証がないと言い訳をする。命令に従うことでしか先行きを見渡せない。命令を出す側の方も、要請という名で人任せにしている。名ばかり緊急事態。そんな気がします。
桜の季節は儚くも過ぎ去りました。疫病の収束を祈りながら自身の生き方を顧み、できることをしていきたいと思います。
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