東間浅間神社の創建については諸説あり、一説に万延元年(1860)当時別当を務めた宝光寺の「富士大権現略縁起」によれば、崇徳天皇の御代、武蔵野国守大納言藤原俊行の霊夢に始め本地薬師如来の姿で現れ、二度目に木花咲耶姫となって現れた御祭神が、この地をもって貴賤男女の繁栄の地として飛び立ち社殿を建立したと伝わる。飛び立った先は東の方で東間の由来ともなる。
木花開耶姫の御神徳の碑文が建てられている。
古事記、日本書紀神話にある国産神話で山の神として祀られる大山祇神の御女で天孫瓊瓊杵命の妃として、皇室の始祖大御母。
今日の日本の礎としての信仰深く、安産、子育ての神として御神徳をお授けする。
また塚の階段脇には平成十七年火災による社殿焼失から再建された記念碑も建っている。同年六月一日、不審火による社殿焼失により、氏子崇敬者の悲しみ、怒りは計り知れないものであったが、地元の協力により見事冨士塚に社殿を再建した経緯が刻まれている。社殿再建が平成十九年であるから、今年で15年ということだ。地方の村社にとって社殿の再建は一大事業。かつ不審火による焼失とあってはなおさらのことだ。
神社や境内は今でいう社会インフラ以上の役割を果たしている。お金では変えられない価値や歴史、人々にとっての安息の場であることはいうまでもない。災害を乗り越えいつまで北本の人々にとって大切な社として受け継がれていくだろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます