皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

巨人優勝セールの行方は

2022-02-22 22:26:09 | 物と人の流れ

1990年代初頭まで、プロ野球巨人軍が優勝した暁にはそごうデパートで優勝セールが行われていた。(と思う)
有楽町のそごうに読売会館が入っていた縁だという。2000年代に入ってそごうデパート、西武百貨店とも売り上げの低迷から再建計画を経て実質2004年に西武そごうとして合併。2006年に流通大手セブン&アイグループに吸収され子会社貸され現在に至っている。
2020年実績で店舗数わずか10店。売り上げ高4300億あるもものの、営業利益は97億円の赤字である。
昨日のニュースで親会社であるセブン&アイ・ホールディングスはそごう西武の株式売却を検討し、ファンドグループとの調整に入ったと報じられているが、そこに三井不動産や三菱地所などの大手不動産グループが交渉を見合わせたことも会わせて伝えられている。

人口の減少と長らく続いたデフレ経済によって百貨店業界がその規模を縮小してきたのはこの四半世紀の周知の事実だ。国のインバウンド政策、外国人観光客の増加でやや持ち直した時期もあったが、ここ二年のコロナ禍でほぼ先行きが失われたとの見方が強い。

ここまでがTVやインターネットニュースで伝えられている内容だが、今朝のラジオの経済評論家(町のエコノミスト)の話は流通大手セブン&アイが早々に(でもないが)西武そごうに見切りをつけた理由についてのべている。
流通2強の一角であるセブン&アイのグループ(私は反対側の末端社員)の年間売り上げは約6兆円。そのうちCVであるセブンイレブン(子会社)が四兆円を稼いでいる。しかも営業利益はグループで500億円しか稼げていないのだ。(営業利益率は1.25%)
概算ではあるがグループ全体で稼いだ利益の1/5(20%)を子会社である(10店しかない)西武そごうが食い潰している計算だ。
(インターネット公開している数字を概算で計算しているだけです)
しかも今後セブンイレブンは海外での展開でフランチャイズ料などで600億円程度稼ぎ出すという。
これではグループへの投資家から不採算部門の切り離しを求められるのは当然で、今後さらにコンビニへの特化が迫られるという。
これが株式会社の負の側面で、短期的採算性を求められると、自由な選択ができなくなるという。
いわゆるコンビニ一本足打法へと向かうと町のエコノミストは話をまとめていた。
今後のセブンイレブンに注目している。(自分の勤める会社の方向性にも期待を寄せている)
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吹き荒れし 嵐もいつか おさまりて

2022-02-22 20:52:21 | いろはにほへと

吹き荒れし 嵐もいつか おさまりて
 軒端(のきば)に 来鳴く 鴬の声    運勢 末吉

身の煩いも散り失せ禍こともなくなり
元の道を守って辛抱怠らなければ
幸福(さいわい)身に余って家のうちも明るく楽しく暮らされます。
信神なさい。

●願い事 他人とともにして我が儘せねば諸事叶う
●争い  勝つが難あり
●恋愛 思う通りにならぬ
●相場 売り買いともに損
●待ち人 来る驚くことあり

末吉の句は非常に奥が深く、受け手にとっていかようにも解釈できよう。
そもそも末吉とは運勢が下る転換点のようなもの。運気についてあれこれ述べても私にはその出展となる文献に触れたことがない。浅はかな経験則による漠然としたイメージに過ぎない。

神の教え
人は神の子、兄弟同志、助けたり助けられたり
親の心神様は人の子皆を同じように可愛く思し召し、みめぐみくださる分けても、弱い子貧しい子不幸な者をいっそう哀れにおぼしめす、思いやり深くこれを助け、これを救い、これを慈しむことがこの上のない神様への奉仕の道である。

信神なさいとはすなわち神への奉仕に他ならない
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加須市不動岡 いちっ子地蔵②

2022-02-21 22:01:40 | 史跡をめぐり

伝承いちっ子地蔵より
江戸時代この地域は大雨が降ると会の川の堤防が決壊し、田畑家々が水没しました。
村人は幾度となく堤防を築きましたが、壊され続けて困り果てていました。ある日大雨のの時突然雨が小降りになりました。その時「いち」という名の瞽女(ごぜ=目の不自由な女性芸人)娘がたっており天からのお告げを聞きました。
「わが身を川に投げ入れれば荒れ狂う川を鎮められる」
いちはその声をきき「村人の難儀が救えるなら喜んで引き受けましょう」と言って川の流れに身投げしました。すると荒れ狂うていた流れは収まりました。村人は娘いちに感謝し決壊口近くに地蔵尊を建立し、いちの霊を慰めるため末永く供養を続けました。
同様の言い伝えが大越や礼羽の川圦神社にも残っています。
羽生の郷土史家高鳥邦仁先生によればこうした漂流人柱伝承は各地に残っており、この不動岡のいちの伝承が異なる点は、人柱となるものが「瞽女」であること、いちという名がしっかりと伝えられる点だという。多くの人柱伝承では身投げする(生贄となる)ものは巡礼の母子や修験者が多く、その名がしっかり伝わることは少ないという。

瞽女とは何か。当時の流行歌や物語を歌いながら渡世する盲目の女性を指す。娯楽の少なかった昔にそうした人々は多くの人々の癒しや楽しみとなり、各地で迎えられたことが伝えられる。
いちという女性が旅の女なのか、はたまた不動岡に定住するものだったかはわからない。但し、いちっこ地蔵には「先祖代々」との銘が刻まれていて寛政八年の年号も見える。但しその前後も含め、当地では大水があった記録は見えない。

かつて不動岡村にいた瞽女は巫女を兼ねた女性だったと高鳥氏は推察している。ゆえに「いち」と呼ばれた。(華でも桃でもなかった)村の行く末を案じ、呪術的な教えを施し、いつしか伝説となっていったのではないか。先祖供養の地蔵が立ったのは事実であり今に残る現実である。そこに呪術的な要素を絡めてある一人の巫女の存在が言い伝えられても不思議ではない。
いちっこ地蔵が伝えるのは人柱としての物語ではなく、大水が起こったことの事実であるのだと思う。
時と共に村は豊かに、穏やかになる一方、万が一の記憶は薄れ、物語としての女性像だけが独り歩きする。

現地の地蔵尊は三体で、いちっこと記されるのは向かって左の単身像である。しかし高鳥氏によれば本当のいちは右端の双身の像だという。
やはり他の人柱伝承のように人柱となったのはいちと呼ばれる盲目の女性であっても、母娘の巡礼者であったともとれる。

いずれにせよ伝えるべきはこの地で水の恵みと共にその流れに翻弄され命まで落とした人々の暮らしがあったことに他ならない。

多くの卒業生にとって足を踏み入れることのない不動岡高校の裏のひと区画に今もいちっ子地蔵は立っている。
私は伝えたい。この地の人々が生き抜いた歴史を。未来に向けてそれぞれが果たす役割をもって生きていることを。
103期卒業生の一人として。
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加須市不動岡 いちっ子地蔵①

2022-02-21 20:52:53 | 史跡をめぐり

埼玉県下最古の歴史を誇る県立不動岡高校。旧制埼玉中学の創立以来幾多の苦難を乗り越え多くの卒業生を輩出する県東部の伝統校の裏にはひっそりとお地蔵さまが立っている。石碑としては三体あって、向かって左から単身、中央に六連、右に双身の体で佇む。

そもそも不動岡という地目の由来は、高校の西側に鎮座する總願寺の境内に建つ不動堂に由来する。その歴史は古く時に長暦三年(1039年)の洪水によって流れ着いた不動明王を拾い上げ、安置したことによるもだという。

ところがそれだけにはとどまらず、このお不動様、かつてはほかの地で安置されていたものが盗まれて、それが洪水によりこの近辺(羽生領)に流れ着いたものであったという。しかも初めにこの辺りで拾い上げられた場所は、今の不動岡の地から遡ること3キロほど西の場所であったという。
流れてきた不動明王を村人が拾い上げたところ、地面が揺らいだという。そう大きな地震が起きたのだった。
洪水に続いて大きな地震が起こり、村中恐れおののいた。お不動様が怒ったのに違いない。そう思い込んで拾い上げた不動明王を再び川へ流したという。その場所が現在の加須市岡古井。すなわち岡震えが転じた地名だという。
皿尾久伊豆大雷神社には岡古井からの参拝者が古くからいらした。かつて病で悩んだところ当社に祈願し治癒したことから毎年のようにお礼参りに来ていると聞いている。
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第二節気 雨水

2022-02-20 23:38:38 | 生活

立春過ぎてはや半月。降っていた雪がいつしか雨に変わり、積もった雪や氷が本格的にとけだす頃。固く締まった土がゆっくりと潤い始め、春の気配に草木が蘇る季節です。

昨日降った雪はみぞれ混じりのかざはなで、遠くの山々が明るく見えるなかで、赤城、男体山といった上州の山から吹き下ろしの風にのってやって来る北武蔵特有のふりかたでした。
雪にも色々名前がつけられており、徐々に水分が多くなり結晶同士がくっつきやすく、大きな『花びら雪』、また花弁になぞらえた『牡丹雪』、すぐに消えてなくなる『淡雪』など様々です。
やがて糸を引くような『春雨』『暖雨』へと姿を変え、一歩ずつ春へと歩みを進めていきます。

花や草木に養分を与えるこの時期の雨を『養花雨』と呼びます。同様に雨水から春先にかけて降る雨は『甘雨』(慈雨』(催花雨』ともよばれ、昔の人々あが花々を愛で咲き誇る春を心待にしたことが伝わってきます。
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