皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

北本市 本宿天神社

2022-02-20 21:18:23 | 神社と歴史

北本市は慶長七年(1602)鴻巣宿に宿駅が移るまでは中仙道筋の宿場であった。江戸時代の元宿村は宿場の中心で、この天神さまが鎮守として祀られてきた歴史があるという。
元宿村の名主は「機屋(はたや)」の屋号を持つ岡野家で、二十五代を越える旧家で当初氏神として稲荷社を祀っていたが、寛文二年(1662)領地安全と五穀豊穣を願って京都の北野天神社の分霊を勧請したのが起源という。だから元宿村の鎮守であると同時に、岡野家の氏神であった。
江戸時代には当社東南に隣接する多聞院持ちとして寺の管理を受けていた。多聞院は多聞律師が文永年間(1264ー75)に創立した真言宗の寺院で本尊は毘沙門天である。明治維新後神仏分離によって寺院の管理を離れ、明治六年に村社となる、現在参道の入り口には『旧一級社』という立派な石碑喪建てられている。また参道の脇には北本英霊記念碑が建っており、戦後もこの地が北本の中心であったことを物語っている。

学問の神としての信仰厚く、拝殿前にの絵馬には学業成就の願いがい多く寄せられている。また明治二十四年奉納の関流算法の算額は北本市の有形民俗文化財となっている。

例祭は菅公の命日である二月二十五日。三月二十五日の春祈祷は悪魔払いの行事として玉敷神社から借りてきたお獅子様と多聞時から借りてきた大般若経を拝殿に安置して氏子を迎える。
当社の境内のある中仙道東側の一角は徳道と称する地域でこの地名は江戸期以前あった永蓮寺というお寺の参道であったことに由来する。都市開発工事の結果住居表示も変更となって現在中央、東間、北本、本宿、中丸といった表記になったが、かつての中仙道沿いには多くの宿がたち、祖の名残を留めていたという。『質屋』『三軒茶屋』『鍛冶屋』『立場』などの屋号が近年まで残っていた。
尚、『三軒茶屋』とはお茶屋が三件ならんだのではなく、お茶屋が一軒、菓子屋が一軒、酒屋が一軒並んでいたことに由来する。(世田谷では三軒の茶屋が並んでいたそうです)ちょうどその辺りが草鞋を変える地点であって、たいそう栄えたことが伝えられる。
北本宿の名主は先述の岡野家であるが、明治十四年、岡野英蔵は実業家を志したものの、関東大震災の荒廃に直面し、宗教家を目指す。
独自の修行を重ねて昭和四年には解脱するにいたり、『解脱会』を創設した。
解脱会は『在家宗教』『超宗派』を掲げた新興宗教で、東京はもちろん海外にも支部を有している。
現在でも岡野家の菩提寺である多聞院や氏神である本宿天神社を大切にしていて、まさしく宗派を越えてその教えを広めている。
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筆から筆へと受け継がれたものは

2022-02-19 23:09:01 |  久伊豆大雷神社

昭和四十三年より記すとある当社の奉納者名簿。私が生まれる四年前からの帳面を今は私が引き継いでいる。
神社の現在の社殿が建立されたのが昭和6年。日露戦後の国威が高まった頃はで、地方の村社もその時期棟上げされたところが多いだろう。
方や高度成長期の真っ只中。昭和40年代初め神社の社務を担っていたのは祖父である。

明治生まれの祖父の文字はしなやかで力強く、また当時の奉納額の多くは五百円から二千円となっており、私が生まれる前の様子を伝えている。
昭和六十年代には父の文字が見える。基本金と並んで自宅の新築基記念の奉納が多い。バブル全盛期、田舎の多くの人たちが自宅を新築していた時代だ。
日本の現在の戸籍制度は明治維新によって新政府が採用したものだろうが、そのもととなったのは恐らく江戸期から続く檀家帳であろう。誰がどこの檀家で名主が誰、隣組はどこなどを掌握していたものと思われる。
一方神社の奉納者の名簿は、基本金の取りまとめ以降は成人式、結婚、出産など人生の節目にそれを氏神である神社に伝えた記録である。氏子の生涯の通過儀礼と見ていいものだ。
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祖父から父へ、父から私へと引き継がれた筆は、皿尾村の歴史そのものだ。
誰一人としてかけてはならない村の歴史。一人一人の名を読み返しながら未来へと続くよう御神徳を祈っている。
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私をスキーに連れってって!

2022-02-19 22:41:37 | 物と人の流れ

連日行われている北京冬季オリンピック。コロナ禍での運営に世界中が注目しているが、やはり冬季五輪の中心競技はスキーだろう。学生時代青春18切符で毎週のように湯沢方面までスキーに出掛けたほどスキーが大好きだ。ただしここ25年ゲレンデにいくこともないので、恐らくもう滑ることすらできなくなっているかもしれない。
冬季オリンピックでの金メダル獲得最多国は北欧の雄ノルウェー。630個を越えて堂々の一位を誇る。
スキーの起源は古く、紀元前2500年頃から積雪時の移動手段として利用されてきたことがわかっている。語源はノルウェー語で「薄い板)を指すスキーから来ている。
ヨーロッパのアルプス地方で普及したアルペンスキーが主流となっているが、もとはノルウェーのスカンディナビア半島で発展したノルディックスキーも人気競技だ。滑降と滑走共に北欧で古い歴史のある競技なのだろう。

ノルウェーのひとたちは「スキーをはいて生まれてくる」と言われるほどスキーが生活の一部になっているそうだ。
人は環境に適応し、環境を克服し、環境と共に生きている。雪深い北欧が豊かな文化を持ち、冬季スポーツの大国であることがそれをものがたっている。
若い世代にとってはスノーボードが主流となった今でも、多くの人がスキーを楽しみ、雪と共に生活している。ノルウェーは一日にしてならず。いって国のひとつだ。
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輸出統計から見る日本の近未来

2022-02-15 22:30:15 | 物と人の流れ

2月4日発表の政府輸出統計によれば、令和三年の農産物の輸出総額は1兆2000億円で初の一兆円越えを果たしたそうだ。2025年には2兆円を政府は目指すという。2020年度の自動車の輸出総額が9兆500億円であるから、もはや日本は工業立国ではなく農業国の様相を果たすようになったことは数字の上で明白だ。
白物家電と呼ばれる洗濯機やエアコン、コンピューター関連品に至るまで2000年ごろまでは技術的に優位であったものが急激にその競争力を失ったことは私たち世代(40から50代)にとって目をそらしたくはなるが、疑う余地のない現代史となっている。
農業輸出品の金額でここ十年来一位を守る品目はホタテ。今日のラジオの特集で知るまで自分も知らなかった。恐らく漠然とした経済ニュースできていたのかもしれないが、金額639億円は2位以下を引き離しての額である。中国での消費が堅調であること、アメリカでの食文化にあることなどからここしばらくトップであるそうだ。ただしアメリカ産のホタテの生産が増えればその影響を受けるという。ホタテは海水温25度いかでないと死滅するらしく、温暖化の影響も今後は出てくるだろうと新聞でも懸念している。
回転寿司でも年々ホタテの大きさが同じ金額では小さくなっている気がしてならない(憶測です)
工業品輸出の恩恵は円安で受けてきたものの、ここ数年の円安、原油高ですっかり物価上昇の波がうねりをあげてしまっている。同じ生産力でありながら、ただ単に日本の高品質な食材(勝手てな思い込み)が海外で安く買い叩かれていることを理解する人は少ないと思う。

鉄道や原子力発電の技術的な輸出はどうなっているのだろう。日本はこれからの十年外貨を稼ぐ産業はなくなってしまうのではないかと危惧している。

話がやや飛躍するが、学校教育が始まったのは明治初期のことで、寺子屋から小学校へと転換されたのは明治19年(1886)のことだそうだ。まだ150年にも満たない。
学歴より人間性、などといって学校の成績よりも本人の様々能力によって評価すべきと言われて久しい。
ところがすでに学校で学ぶよりインターネットや様々なツールで学び、大人になっていく子供たちが増えている。よい悪ではなく学校を中心とした教育制度も実は長い歴史で見れば200年300年と変わらないものではないらしい。
ましては日本が工業生産によって成り立つ技術立国などという概念は少なくとも平成半ばまでには終わっているといっていいだろう。

むしろこれからは流通サービス、販売方法といった日本のサービス形態が海外に進出するときなのだろうか。
いづれにせよ稼ぐ力のあるものが残っていく時代なのだろう。
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熊谷総鎮守 高城神社

2022-02-14 22:29:17 | 神社と歴史

熊谷市は直実公のお膝元として知られるが、その地名の由来は荒川の蛇行に形成された『曲谷』(くまがやつ)によるものだという。古くから地下水の沸く遊水地が多くあり、はるか昔は鬱蒼とした茂みの中で古代祭祀が行われていたことを思わせる。行田の浮き城と地政学的には類似するのではないかと思う。
高城神社は『延喜式』神名帳に列する「大里郡一座 高城神社」と称する古社である。
高城は古くは高木とも書き、のちに城の文字があったという。群馬県甘楽郡には「高垣神社」があり神聖な祭場を高い垣根で囲ったことを思わせる。高城は区画した祭場を示す「域」であったのかもしれないと「埼玉の神社」は記している。

古代当社を奉斎したのは武蔵七党の私市党(きさいちとう)に属した久下氏であると考えられている。
尚大里郡大里村に鎮座する高城神社を式内社とする説もあるそうだ。鎮座地が古代の郡榮であるとされる和田吉野川左岸にあり、境内から銅製の古鈴が出土していること、近辺に多くの古墳が存在するなどしている点が挙げられている。
中世においては高城神社の動向を知る資料は、熊谷次郎直実が崇敬したとい伝承が残るだけだという。式内社でありながら律令末期には社会的な動乱と共に、大里郡においては武蔵武士として勢力を伸ばした久下氏と熊谷氏とが対立したことで、庇護が薄れてしまったという。(久下氏は三島神社、熊谷氏は千方神社を崇拝した)
中世衰退した高城神社を再興したのは江戸期になって忍城主阿部家が崇敬したことによる。寛文十年(1670)境内の洞穴から霊水が沸き、諸病治癒に霊験あらたかという信仰が起こり、おびただしい参拝者が押し寄せる。これを知った阿部家は翌寛文十一年(1671)社殿を再興している。以来阿部氏の崇敬は三方領地替えで移った白河へ転封後も変わることがなかったという。
現在残る高城神社縁起なども阿部家ゆかりの古文書だという。

忍城主阿部家によって江戸期に社殿を奉じ、白河転封後もその崇敬を受けた点は、当社(皿尾 久伊豆大雷神社)も全く同様である。阿部家は老中を輩出する銘家であるとともに、代々古くからの崇敬を守る家柄だったことが伺える。

尚、境内東北に残る旧鳥居は老中阿部忠秋公が奉納したものと伝えられる。

ご祭神である高皇産霊神(たかみむすひのかみ)は生成を神格化した造化三神の一柱。
「産み・育て・結ぶ」という御神徳に氏子があやかるようにと「祈り・感謝・人生儀礼」を導く。
明治三十九年に始まった「八日市」は明神様の「お酉市」として知られ多くの露店が集まる盛大な祭りとなっている。

また境内地北側には壮大な戸隠山車をしまう収納庫が建てられ、うちわ祭りの中心的役割を果たしている。

縁あってこの二月より熊谷の地にお世話になることとなり、氏子詣での初端として参拝し、気持ちも新たにした一日だった。
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