皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

貴船神社と雪の神

2022-02-13 23:34:35 | 神社と歴史

京都の北奥深い峰々の中を鞍馬川と貴船川が流れています。その二つの川の合流地点から約二キロほど遡ったところに貴船神社は鎮座します。木船とも書き、ご祭神は高龗神(たかおかみのかみ)。龗=レイと読みすなわち竜が司る水の神を表しているそうです。

日本書紀によれば伊邪那美命は火の神加具土命を産んだ時女陰を焼かれて身罷ります。伊弉諾命はその死を悼み、加具土命を切りつけその際に飛び散った血液などから様々な神が生まれます。雷の神、山の神である大山祇神、そして水の神である高龗神です。
律令期より大和朝廷は雨乞いの政事を行い、平安時代には貴船神社がその崇敬を受けたとされます。

雨を祈るときは黒馬。止ませる時には白馬か赤馬を献上したそうです。時代が経つと生き馬の代わりに馬型の板を使った『板立て馬』として奉納します。これが現在の絵馬の原型となりました。

女流歌人として知られる和泉式部。
夫との仲がうまくいかずに貴船神社を頼ってお参りし、次の句を詠んでいます。
ものおもえば 沢の蛍も わが身より あくがれいづる 魂かとぞみる
(訳)あれこれと思い悩んで貴船神社に参拝してみると、蛍が乱舞していてその蛍は自分の魂が抜け出たものではないか
これに対して貴船大神が返した歌が
奥山に たぎりて落つる 滝っ瀬の 玉ちるばかり ものなおおもいそ

あまり思い悩んではいけないよ。貴船川の激しい流れが玉のようなしぶきをあげて流れ落ちるように
この後夫婦仲はよくなり、和泉式部は女流歌人としてその名声を高めていきます。
全国に勧請された貴船神社は多くの文芸作品にも登場する高貴で荘厳なお社で、現在でも縁結びの神としても信仰されている。
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K点を越えて行け

2022-02-11 18:24:45 | 記憶の片隅

冬季オリンピック北京大会が行われている。夏季東京大会からわずか半年。様々なことが報道されるなかで、選手や関係者の奮闘を一人の市民として見守っている。一年延期された東京大会と比較し、コロナの感染状況がどうなのか、大会の運営に世界も注目しているだろう。
スキージャンプを始め、スケートショートトラックなど非常に失格判定が多いと聞いている。純粋に技術を競う競技はすでに昔の話で、道具の規制やドーピングの問題などルールについて公平性を担保するのが難しい状況まで来ているように思う。なんのためのルールなのか、行き着くところまで来てしまうと、スポーツとしての根幹を揺るがす事態になりかねない。無駄な争いのための祭典にならないことを祈るばかりだ。

学生時代スキーに夢中になった。金銭的余裕はなく、道具もなんとかB級品を揃え無我夢中で青春18切符で早朝の各駅停車で越後方面のスキー場へ向かったのは二十歳過ぎて間もない頃だ。雪上でしか味わえない滑走感と山頂から見る景色に若かった自分は魅了されたいた。
長野オリンピックでスキージャンプ陣が大活躍した1998年。社会人一年目の年だった。その頃までなんとか続けたスキーもここ20年ゲレンデに行くこともなくなった。時間に余裕がなくなったのか、滑走感よりものんびりした時間に重きをおくようになってしまったのか。
また必ず雪上に戻ってみたいと願う。

スキージャンプの着地でとる姿勢を「テレマーク」と呼ぶ。語源はテレマークスキー。アルペンもジャンプもこのテレマークスキーが発展した形だそうだ。テレマークとは19世紀に後半にノルウェー南部のテレマルク地方ので発展した現代スキーの原型スタイルだという。両手をあげた姿勢がTにみえるから「Tマーク」だとばかり思っていた。スキーも北欧で始まった伝統的な競技。歴史を積み重ねることで、やはりボードよりも格式が感じられる(個人的見解です)
もちろんスノーボードも好きだ。あの自由な感覚はより現代には受け入れられやすいのではないだろうか。(1年だけやって、滑れるようになったのは大学5年のころだったか)

諦めなければまた必ずスキーもスノボもできると信じている。
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さくらと歴史と森歩き~石戸蒲桜と源範頼伝説

2022-02-10 23:47:43 | 神社と歴史

鎌倉殿の13人、源平の争乱は緒戦石橋山の戦いを終え、頼朝と北条の一行は命からがら上総の国を目指すことになるが、物語は間だ始まったばかり。一年を通じて主人公北条義時を中心に(あくまで鎌倉殿は主君)どのような展開になるのか楽しみは膨らむばかりであるが、ここ武蔵国北本宿には源氏に纏わる一本の古い桜の木が残っている。
石戸蒲ザクラ
大正期に日本五大桜として国の天然記念物に指定された銘木である。樹齢800年を誇る桜の木は今年令和4年には記念物指定100年を迎え、三月には記念講演が開かれる。

石戸蒲サクラの「蒲」は源範頼に由来する。範頼は源頼朝の異母兄弟。父源義朝の六男に当たる。
母は遠江の遊女と伝わり、保元の乱で父が敗死すると貴族の官人藤原範季に預けられる。遠江の蒲御厨で生まれたため「蒲冠者」と称される。同じ頼朝の異母兄弟である義経とは育った環境も違い、文に長けた人物だった
あまりに義経が戦上手で悲運の武将と唱われその名が知れわたった一方、範頼は頼朝を補佐しながら、戦においても緒将をまとめあげていったことで知られている。

木曽義仲を討ち、壇之浦の事後処理をしたのはこの範頼だったとされている。得に檀ノ浦の戦い後、安徳天皇とともに沈んだ三種の神器のうち、神鏡と勾玉(神璽)は引き上げられたが、神剣は見つからなかった。最後までこの剣を探したのは範頼だったとされる。

鎌倉幕府成立後、身内にも厳しかった頼朝は義経を討ち、匿った奥州平泉も攻め滅ぼしたが、範頼にも謀反の疑いをかけて伊豆へ流している。修善寺に幽閉された範頼はこの地で殺されたと伝わるが、その後この武蔵国にに逃れた伝承が残っている。
ひとつは吉見観音に逃れたという伝承。吉見町には大字御所という地名が残っていて、これは頼朝の乳母である比企尼の懇願で、範頼の子供らが助命されたことに由来する。その後子孫は代々吉見氏を継いだという。

もうひとつが北本近くの石戸へ逃れたというもの。
石戸には白山神社があり、近くに阿弥陀堂があって源範頼の息女亀御前の追福のために建立されたという。
現在は東福寺として、神社は明治期に石戸神社とその名を改めている。
それは石戸村が合併して「北本宿村」と改められたため、石戸の名を残すために神社名を白山神社から石戸神社へと改称したものである。

サクラが咲いたら石戸蒲サクラを見に行こうと願う。範頼の無念を感じることができるかも知れない。
今こうして北本での最後の晩に源平の争乱に思いを馳せながら拙い文を嬉々として打っているのも歴史の導きだと思っている。
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石橋山の合戦より

2022-02-07 20:37:07 | 先人の教えに導かれ

令和四年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を毎週楽しみに見ている。源平合戦を舞台に、最後は執権として武家政権の実権を握った北条氏からみた平安末期から鎌倉時代の物語。軍記物はやはり多くの人の心をとらえ、視聴率も堅調のようだ。
先週の第五話では、源平争乱の火蓋が切って落とされ、緒戦の様子が壮大に描かれていた。
 三島大社の祭りにあわせ、平家方の目代山木兼隆、伊豆権守、堤信遠を討ち取り首検分を果たしたシーンから間もなく、国衆の土地分配を頼朝が行ったことに激怒した平家方は、その筆頭各たる相模の大庭景親、北条義時の祖父伊藤祐親は鎌倉に向かう北条、源頼朝一行を石橋山の麓で挟み撃ちにする。雨で身動きのとれない頼朝一行であったが、援軍の三浦氏を待っていた。川の増水に阻まれ北条軍に合流できない三浦軍。義時の盟友三浦義村は「小四郎、すまぬ」の一言で引き返してしまった。このあと描かれていなかったが、三浦軍は引き返す途中、武蔵の畠山重忠と衝突している。

石橋山合戦のハイライトはその戦の始まりとなる北条時政と大庭景親との罵りあい。
これは中世まで合戦のならいとされた「言葉戦」=ことばいくさと呼ばれる合戦の作法だそうだ。
相手の所業を罵ることで、味方の士気をを高めたらしい。
「平治の乱」にて頼朝の父源義朝つき敗戦。平清盛に助命された恩から平家につき、清盛の信頼が厚かった景親。
「平家からの恩は海よりも深く、山よりも高い」
そう叫んで北条時政を罵った。
一方、歌舞伎役者坂東彌十郎演じる北条時政は「あー情けなや情けなや。一時の恩で代々の源氏の恩を忘れるとは」と応じている。
時政はドラマを通じて戦上手の交渉下手として描かれている。まさしく、挑発をしながら挑発にのり、数で劣る負け戦の端を引いてしまった様子が非常に面白く、史実とドラマを織り混ぜた見ごたえのある場面であった。
このあと、頼朝挙兵の立役者北条宗時(義時の兄=片岡愛之助)は北条館近くで伊藤家の刺客、善児にあっけなく殺されてしまったのが歯がゆくもはかない展開であった。
「源氏も平家も関係無い。俺は坂東武者の世を作りたいだけだ」
そう志した宗時が奔走したお陰で頼朝は挙兵したのだった。
坂東武者
親が死んでも、子が殺されようともその屍を乗り越えて戦う
都の平家にそうささやかれて恐れられていたのが関東の土着の武士団だったという。
例え身は滅ぶとも魂は受け継がれる。武士道の精神はここ関東の地から受け継がれてきたに違いない。
今後の展開が楽しみだ
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心がイエスといったなら

2022-02-03 21:11:03 | 心は言葉に包まれて

二日酔いの頭でぼんやり思う
靴の中の石ころみたいにしっくりこない
君らしくあれと言われて
響かないのは
私が平凡だからか わかんないけど

どんなに時間を費やして
大きな結果を残せても
必ず死ぬとわかっていて私たちはなお生きる
なぜ?

こころがイエスと言ったなら 我慢も駆け引きも捨てて
狂ったように走って行け
たったそれだけの理由で
心がイエスといいたなら一秒で世界は裏返る
狂ったように笑って行け
ほんの一瞬の命さ 痛いほど

中仙道沿いに一本の桜の木が立っている
今の会社に勤務して一年弱。花の咲くのを楽しみに待っていた
別れの命令はあっけなかった。立春を前にあっけなくさようなら。
ほんの一瞬の命。そのままだった。

聞き分けが良いと言われてムカついたから
安定を手放したのは愚かだろうか

どんなに無謀か知っている
最初で最後と知っている
笑われるのも気にせずに 私たちはなぜ賭ける
ただ

心がイエスと言ったならセオリーも理屈も捨てて
思ったように向かって行けたったそれだけの理由で
心がイエスといったなら一秒で世界は立ち上がる
描いたように作って行け
たった一回の命さ


作家としても活動する彼女は楽曲のすべてを手掛けている。
また当初「黒木渚」という自分の本名を関したグループ名とするなどバンド活動においても強いこだわりを見せている。
生死観、時間軸、訴えかたなどどこか若い頃の椎名林檎に重なる気がしてならなかった。
はじめてラジオでこの曲が流れれたのを聞いたとき、パーソナリティーは
「突き放しつつも包み込む」という楽曲観が好きだといっていた。
そう人は生まれた瞬間から、死地へと歩みを進めてえいるにすぎない。
だからいつどれだけということよりも自分がどう生きるかに意味がある。
片道切符であるからこそ、見える景色を大事にしなければと思う。
迷ったときは損か得かではなく、心がイエスというかどうか


心がイエスと言ったなら一秒で世界は裏返る
狂ったように笑って行け
ほんの一瞬の命さ 痛いほど

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