皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の

2022-04-16 21:20:58 | いろはにほへと

菅原道真、平将門とともに日本三大怨霊とされる崇徳天皇。保元の乱で敗れ配流された隠岐(香川県)で亡くなった後、天変地異を起こす怨霊として平安末期から恐れられてきた。
 『鎌倉殿の十三人』で重要な役どころとなっている後白河法皇は崇徳天皇の弟。兄弟で争い敗れた戦いが保元の乱。隠岐に流された崇徳院は舌を噛み切った血で『願わくは大魔王となりて天下を脳乱せん』という誓いを経に書きつけて壮絶な最期を遂げている。その崇徳院の歌が小倉百人一首に収められている。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
  われても末に あはんとぞ思ふ


流れが速いので岩に堰き止められる川が二つに割れてもやがては一つになるように、今はあなたと別れてもいつか再び必ず逢って結ばれようと思う
崇徳院にとって思い人と再び会いたいという恋慕の歌としてではなく、戦いに敗れ流されてもなお、世の中に対して執念を燃やす歌ともとれるという。
この歌の結びは『あわんとぞ思ふ』という八音の字余り。五七五七七の流れる音調からはみ出すことで、重々しい感情が込められるそうだ。
悲運の天皇崇徳院。京都白峰神宮に祀られていて、鎌倉時代の肖像画も国の重要文化財として残っているそうだ。写本も残っていて今春公開予定という。
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地域社会と神社のあり方

2022-04-07 20:46:24 | 神社と歴史

桜も満開を過ぎて、桜吹雪も舞っている。昨年に比べ肌寒い日も多く、やや花もちが良かったように思う。
皿尾城公園の桜も地元の植樹事業によって50年以上前に植えられたことは何度か書いているが、公園や自治会館と併せて、貴重な社会資本であると思う。地元の人だけではなく、通りかかる人、散歩に訪れる人、神社に参拝に来られる方など、多くの人々にとってこうした景観は誰もが享受する日本の美しい風景であり、心の財産になりうる。昔見た原風景は何年たってもその人の心に残るのだ。
コロナ禍となって三回目の春が過ぎようとしている。未知なる疫病との対策の中で、多くのことが顕在化している。コロナだけでなく、私たちの生活は不確定要素であふれている。同じように季節がめぐり、日々同じ生活が遅れることは実は先人たちが築き上げてきたものに頼っていることで、かつ実は脆い砂上の楼閣
のようなものなのだ。現に都市への集中、格差の問題、際限のないグローバル化等社会的矛盾はコロナに関係なく、問題提起されていたはず。

コロナの後の未来は都市集中型か分散型社会へと移行するとみられている。これは人口減少社会を迎えた日本における特有の問題ではなく、SDGsに見られる持続可能な共生社会へのシフトとみてよいのだろう。繰り返しになるが人口は減っている。しかも急激に。それぞれの地域が持つ固有の価値や風土を見直し文化的多様性を継承しようと関心が集まっているのだ。
ここ行田においてもおもてなしの心を花で表現しようと『花手水』が始まってすでに三年目を迎えている。『ローカル指向』をうまく表現しながら発信することが地域にとって重要なことは多くの人がすでに知るところだろう。

その中で神社が有する社会的役割は何だろうと問う。もちろん信仰や共同体(まち・むら)の中心としてそこに『ある』ことそのものが存在理由ともなる。その中でも『鎮守の森』は地域と自然、信仰が一体化した場所として『社会資本』としての存在と認識できるだろう。
杜には桜もあれば御神木もあり、かつそうした木々に対して人々が思いを寄せることが肝要だろう。
『鎮守の森』は複雑化しなおかつ経済的要因も絡んだ具体的な問題を即座に解決するということはあり得ない。しかしそうした問題を解決し、未来へと導く想像力を育むところなのだと思う。すぐに答えは見つからない。しかしヒント与えてくれるところなのだろう。だから人が集い、祭りが行われ、人生の儀礼に際し人々が願いや感謝を寄せていく。

人あっての社会。地域社会と共にある神社の意味を改めて広めていきたいと思う。

コメント (2)
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人生の三大資金と識者の本音

2022-04-04 23:26:36 | 物と人の流れ

四月は新年度スタート月。新たな環境で仕事や学生生活をスタートする人たちも多いことだろう。コロナ禍でやや経済活動も停滞しているが、多くの職種では日常の業務はおおむね廻っているのではないか。
マクロ経済というと個人の感覚とはかけ離れてしまうけれど、結局は国内のおいては人口の増減と共にスライドしてきたのではないかと思う。要するに人が動いてこその経済で、人口減少を国際化のどさくさでインバウンドと留学生実習生制度でごまかそうとしていた施策がやや行き詰まったところに、大きな国際紛争が起こっているのが現状ではないかと思う。粗い見方かもしれないが。
少子化で子供の絶対数は減っている。それより地域間格差のほうが明らかに問題だ。というより過疎化の進んだ地域では中学校までの義務教育を地域で担う体力がすでにない。多くは学校の統廃合でしのいでいるが、近い将来教育を受けられる地域は限定してくることは火をみるより明らかだろう。当事者以外だんまりを決め込むでいるだけのように詞か思えない。
前段が長くなってしまったが、今日のラジオの経済情報番組のテーマは「人生の三大資金」について
①老後資金
②教育資金
③住宅資金
①老後資金について二千万不足しますと御上が認めてしまったのは何年前だっただろう。マスコミが焚き付けて大きな話題になった。
②と③について今現在当事者であるので、こうしたブログ考えを書きにくい。
ただし住宅資金について言えるのは、現在の金利政策において、日銀が緩和策を継続するということは、金利が上がっては困る人が多すぎるからに思えて仕方ない。現状住宅ローンを組んでいる人の八割くらいの人が変動金利を選んでいるのではないか。2007年のアメリカサブプライムローンの二の舞を回避しているように思えて仕方ない。
月はじめでこうした三大資金に関する番組担当者の考えが聞けなかった(明日以降の放送)が残念だったが、非常に印象に残った点がひとつ。老後資金の問題では公的年金の受け取り開始時期が密接に関係してくる。現状65才需給であるが、75才まで需給開始を送らせれば突き当たりの支給額が大幅に増えるようになり、一定の年齢を過ぎると、総支給額が上回る仕組みということにつて。
60才前後の番組パーソナリティーの経済評論家はこの事について、70歳年金支給開始は年金制度破綻(あるいは延命)をごまかす手段に過ぎないと言っていた。その年齢の当事者にとって70才まで給付を受けられないという事実は、ほとんどの人にとって選択の余地はないのではないかと思う。「人生100年時代」という言葉だけが一人歩きしているだけだと思う。
17年後の2039年までは絶対に生き延びたいそうだ
なぜならその年アメリカのケネディー大統領暗殺事件に関する機密文書が公開されるらしい。
そのとき私は67才。文書は知ることになるが、場合によっては年金を需給できないかも知れないのだ。
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神社建築について②千木と鰹木

2022-04-04 20:37:59 |  久伊豆大雷神社

神社建築の特徴として屋根の装飾が挙げられる。
屋根の両側にV字状に伸びる二本の木を『千木』(ちぎ)、屋根の上に水平に置かれた丸太上の木を『鰹木』(かつおぎ)と呼びます

伊勢神宮に見られる神明造を見るとよくわかります。
千木、鰹木とも古代では皇族や豪族の住居にも用いられましたが、現在では神社建築にしか見られません。古代の建築様式を現在に伝える神社特有の形式です。
神社検定テキスト『神社のいろは』によれば
『千木』は古代において家屋をたてるため木材を左右より交差して結びとし、そのまま切り捨てなかったことに由来するとあります。またチギは『風木』という説もあって風除けのためのものではなかったとも考えられています。

同じく『鰹木』はもともと茅葺や檜皮葺などの吹屋根を抑えるために置かれた木で、形状が鰹節に似ていることから名が付きました。勝男木とも書きます。千木鰹木とも装飾的な理由から発展し、神社の神聖を象徴するものだとされています。

千木の先端を地面に水平に切ったもの(上向き)を内削ぎ、垂直に切ったものを外削ぎと言います。
神社豆知識などで取り上げられますが
千木が内削ぎで鰹木が偶数・・・女性神
千木が外削ぎで鰹木が奇数・・・男性神
と言いますが、必ずしもそうとは限らないそうです。
奈良時代以に形成された『神明造』『大社造』には千木鰹木ともに装飾として見られますが、以降形成された『住吉造』『春日造』『流造』などには千木しか見えないか、どちらの装飾もないことがほとんどです。

当社においては外の母屋は八幡造(流造)で千木も鰹木も見られませんが、内殿の本殿は久伊豆社、大雷社とも神明造で千木と鰹木の装飾が見られます。鰹木は奇数(三本)で千木は外削ぎですので男神。通説に沿った形で非常によく神社形式を伝えているようです。


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雨の日の桜に思う

2022-04-04 20:17:14 | 心は言葉に包まれて

卯月に入りあっという間に桜の花も散り際を迎えようとしています。今日月曜日は雨となり、寒の戻りもあってどんよりとした雲と桜色のコントラストを眺めていました。通常吉野の桜は開花から一週間前後で満開を迎えます。散るのに同じほどかかるのでしょうか。ここ数年暖かかったせいか、開花から満開までの期間が短く、あっという間でしたが、今年は寒さのためかやや花の咲いている日数が長いように思います。

桜が美しいのは、自分で立っているからだそうです。普段は太く黒い幹が一年を通じて大地に立っている。誰の手も借りず凛々しいたたずまいで。
桜の花が愛されるのは、儚く散る花が人の営みに重なるから。
『散ることを知りながら咲くことを恐れず』
今朝のラジオでそんなことを聞き、調べてみると詠み人知らずとして引用されている方がいました。
その通りだと感じます。終わることがわかっていながら今を精一杯生きる。
自分もそうありたいと思います。
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