本町のカイマス氏からお借りした昭和42年の中日新聞から。稲葉桑太郎氏が書いた連載記事“思い出の記”に三滝川堤の桜の由来が書かれていました。
エキサイト四日市・バザールと時を同じくして賑わう三滝川の桜は、このようにできたものでした。
明治時代の末期に四日市の南町・北町の「ひま人」の仲間で親和会なる交際団体が自然発生的にできた。
目的は真実の交際団体で飲み会である。
毎年一回宛、松茂へ寄って飲んで食うというだけの会であるが、昨今と違って昔は会合することが少なかったから楽しい会になっていた。
その後追々と会員が増加して大正時代には会員が全市にわたるおきな交際会となった。飲み食いだけの会だったから弊害もなく毎年連続していた。
その親和会が何の理由からか知らないが、大正時代に富豪だった小菅剣之助と結合した。小菅氏を会長として年一回の会のとき、会長から金一封をもらうようになった。
大正五年頃、会合の席で四日市に桜の名所を作ろうということで、三滝川の両岸の堤に植えたらよかろうということになった。
そこで、北町、竪町、浜町の諸氏が中心となり三滝川遊園地保勝会なる団体を作り、北町の岩田屋呉服店に事務所を置き、桜苗木の植樹の仕事を進行した。
親和会の会員全員が市の有力者を歴訪して寄付を募った。会長小菅氏は金一百円、その他の者は一列に十円ずつを出した。当時三千円ほど集まったように記憶する。次に苗木の研究であるが之は植物博士の俗称のある萬木草堂主人の村田吉太郎氏があたり「染井吉野」と決定して愛知県の苗木屋から購入することとした。 つづく
エキサイト四日市・バザールと時を同じくして賑わう三滝川の桜は、このようにできたものでした。
明治時代の末期に四日市の南町・北町の「ひま人」の仲間で親和会なる交際団体が自然発生的にできた。
目的は真実の交際団体で飲み会である。
毎年一回宛、松茂へ寄って飲んで食うというだけの会であるが、昨今と違って昔は会合することが少なかったから楽しい会になっていた。
その後追々と会員が増加して大正時代には会員が全市にわたるおきな交際会となった。飲み食いだけの会だったから弊害もなく毎年連続していた。
その親和会が何の理由からか知らないが、大正時代に富豪だった小菅剣之助と結合した。小菅氏を会長として年一回の会のとき、会長から金一封をもらうようになった。
大正五年頃、会合の席で四日市に桜の名所を作ろうということで、三滝川の両岸の堤に植えたらよかろうということになった。
そこで、北町、竪町、浜町の諸氏が中心となり三滝川遊園地保勝会なる団体を作り、北町の岩田屋呉服店に事務所を置き、桜苗木の植樹の仕事を進行した。
親和会の会員全員が市の有力者を歴訪して寄付を募った。会長小菅氏は金一百円、その他の者は一列に十円ずつを出した。当時三千円ほど集まったように記憶する。次に苗木の研究であるが之は植物博士の俗称のある萬木草堂主人の村田吉太郎氏があたり「染井吉野」と決定して愛知県の苗木屋から購入することとした。 つづく