カイマス氏にお借りした昭和42年の中日新聞、稲葉桑太郎氏の「思い出の記」から。
「山の神と夜市」
四日市の旧市内の各町には「山の神」というものがあった。木の下に小さい祠が建ててあり、神社の小型版のようなものだ。
毎年初夏の候ともなれば、上新町の秋葉神社の縁日を最初として各町で縁日が開かれる。「山の神」は主として若衆連のお祭りで、十五、六才以上の独身者によって執行されていた。提灯を飾り、鉦や太鼓で囃すのである。露天の夜店も出た。
市民は浴衣がけでお祭りに集った。なかなか賑わったものである。ラジオ・テレビのない時代には夕涼みがてらの暇つぶしにはちょうど好都合であった。五月中旬から八月の中ごろまで、順々に各町で催されて夏の夜の景物であった。
ところが、若い連中が「山の神、山の神」といって遊び歩いていることは不生産的でもあり、風紀上も良くないということで、諏訪神社の境内へ合併し「山積神社」を作った。毎年一回、七月中旬に祭礼を行なっている。之で四日市の大昔からの夏の夜の景物はなくなった。五月の上新町の秋葉神社の縁日と八月下旬の西町の地蔵盆はその時代のなごりである。
四日市には古くから「夜市」というものがあった。
私の記憶している時代には八幡町、袋町、北条町、樋の町と諸所方々にあった。之は露天ではない。古道具屋の店舗であり競り市を開催するのである。夜の七時から十時頃まで古道具を競売するのである。
米びつ、膳戸棚、鉄びん、机、椅子、火鉢、植木鉢、水がめ等の日用家財がほとんどで、一銭の「ちょい」という声から始まる。ほとんどが数十銭で落とされる。
どうしてそんなに安いのか。それは当時流行していた「夜逃げ」による。日が暮れて暗くなると両隣には内緒で衣類だけを持ち、終列車で遠くの親類縁者を頼って逃げていくのである。その際、日暮れになると道具屋を呼ぶが、足元をみられて二束三文で叩かれ泣く泣く売って行く。
だんだん生活が豊かになり、戦時中は食料が配給制となったため「夜逃げ」は出来なくなって止んだ。
しかし、「夜市」は夜逃げの品だけを売ったのではない。質流れの在庫処分もされて便利な存在であったが、今はもう無い様である。
「山の神と夜市」
四日市の旧市内の各町には「山の神」というものがあった。木の下に小さい祠が建ててあり、神社の小型版のようなものだ。
毎年初夏の候ともなれば、上新町の秋葉神社の縁日を最初として各町で縁日が開かれる。「山の神」は主として若衆連のお祭りで、十五、六才以上の独身者によって執行されていた。提灯を飾り、鉦や太鼓で囃すのである。露天の夜店も出た。
市民は浴衣がけでお祭りに集った。なかなか賑わったものである。ラジオ・テレビのない時代には夕涼みがてらの暇つぶしにはちょうど好都合であった。五月中旬から八月の中ごろまで、順々に各町で催されて夏の夜の景物であった。
ところが、若い連中が「山の神、山の神」といって遊び歩いていることは不生産的でもあり、風紀上も良くないということで、諏訪神社の境内へ合併し「山積神社」を作った。毎年一回、七月中旬に祭礼を行なっている。之で四日市の大昔からの夏の夜の景物はなくなった。五月の上新町の秋葉神社の縁日と八月下旬の西町の地蔵盆はその時代のなごりである。
四日市には古くから「夜市」というものがあった。
私の記憶している時代には八幡町、袋町、北条町、樋の町と諸所方々にあった。之は露天ではない。古道具屋の店舗であり競り市を開催するのである。夜の七時から十時頃まで古道具を競売するのである。
米びつ、膳戸棚、鉄びん、机、椅子、火鉢、植木鉢、水がめ等の日用家財がほとんどで、一銭の「ちょい」という声から始まる。ほとんどが数十銭で落とされる。
どうしてそんなに安いのか。それは当時流行していた「夜逃げ」による。日が暮れて暗くなると両隣には内緒で衣類だけを持ち、終列車で遠くの親類縁者を頼って逃げていくのである。その際、日暮れになると道具屋を呼ぶが、足元をみられて二束三文で叩かれ泣く泣く売って行く。
だんだん生活が豊かになり、戦時中は食料が配給制となったため「夜逃げ」は出来なくなって止んだ。
しかし、「夜市」は夜逃げの品だけを売ったのではない。質流れの在庫処分もされて便利な存在であったが、今はもう無い様である。