本町のカイマス氏からお借りした昭和42年の中日新聞から、稲葉桑田郎氏の“思い出の記”に四日市祭りのことが記されている。
四日市諏訪神社の御祭礼は古くから四日市祭りとして全国に有名である。
何時の時代から始まったのか、古いことは知らないが徳川時代の各町の練り物は大部分が釣り練りであった。只新田町と北町に大山と称する大きな山車があって、高さ二十メートル位でたくさん彫刻のはいった漆塗りで見返りはゴブラン織りの立派なものであった。
昔は之を牽いて歩いたものであるが、明治時代以後は電燈、電話線が邪魔になって牽くことができなくなった為め、御祭礼の当日諏訪神社の社頭に大山二基を組み建てて飾るのみであった。
明治時代以降は各町に練り物があって立派であったが、おおくは明治以後に町民の財力の充実にともない改造したり塗りかえたり新造したりしたものが多かった。
山車では北町、南町、竪町、西中町、中新町、四ッ谷新町、新丁、蔵町、桶の町、中納屋町、西袋町、新田町、江田町であり、特に桶の町の大入道と蔵町の狸は人気があった。
上新町と東中町と浜町は釣り練りであって、各々十数基の釣り練りを人夫が担いで歩いた。
南納屋と北納屋と東袋町はいずれも鯨舟であって金色燦然と輝く鯨舟が三ぞう揃って牽き歩く姿は人目をうばったものである。
行列では比丘尼町、久六町の大名行列、南浜田の頼朝公の富士の巻狩、北条町の魚行列である。ことに大名行列は横浜港五十年祭のときに特に懇望されて出張し一等賞を獲得したもので特に人気があった。北条町の魚行列も甚だ珍しいもので、竹籠で魚の型をつくり紙や布を貼って彩色した魚で。大は家屋ほどの大きさの人魚から小は三歳の童子のかむる小鯛に至るまで子供連中に人気があった。
九月二十六日と二十七日の両日は全市音楽入りで練り歩くのである。
全市一斉にお祭り気分となって、学校も銀行も休業であり、通り筋の商店も全部休業して、表に幔幕を張り、提灯を揚げた。
何れの家でも店の間を片付けて敷物を敷き屏風を建て回し、来客には茶菓を接待した。又、家の奥の間では酒肴を山積みして親戚知己を招待して酒宴を開き、二日間は真にお祭り気分であった。