カイマス氏からお借りした昭和42年8月10日の中日新聞から。
大正五年十月八日、浜町の東洋紡四日市工場の仲仕の子供二人が耳下セン炎で死亡、病状があやしかったのと、最近付近に同様の病状で死んだものが数人いることから、警察医が調査、その結果十一日になってペストと断定された。
ただちに同紡績をはじめ浜町一帯をトタン板で囲って外界とシャ断、一斉消毒を行なったが、患者はその後も続々と発症、十月末までに計三十六人に達し、ほとんどが数日間のうちに死んでいった。
かかったら最後、まず助かる見込みがないといわれるペストだけに市民は恐怖のルツボにたたき込まれたのだ。
十一月にはいって発生地は浜町、北条町一帯だけでなく、納屋地区をはじめ市内全域に飛び火する状態になった。
初期の発症患者が倉庫関係者に多かったため、インドから輸入の綿花にその原因があると推定された。市は臨時議会を召集し、一般会計の約四割がその対策費に追加されることとなった。
ペスト菌を仲介するネズミの駆除に全市民は立ち上がった。市はネズミ一匹に四十二円の懸賞金をつけ、名古屋や大阪からもネズミ捕り業者が駆けつける騒動となった。こうして殺されたネズミは六万匹に及んだ。
ペスト禍は、十二月に入ってほぼ収まった。翌年の一月と四月に一人ずつ患者が出ただけで完全に終息した。
市内総患者数六十三人のうち五十六人が死亡した。恐るべき死亡率である。
このペスト禍は、四日市の商工業に大きな打撃を与えた。
四日市入港予定の船舶は、すべて名古屋に向かった為、港湾関係労働者は失業同然となり、四日市駅に下車する人影もなく、旅館はすべて開店休業。町ゆく人も少なく商店街は静まり返った。
時の飯田市長は政府に陳情、海港検疫所を設置して、船舶会社に掛け合い、船の入港に尽力した。
四日市港が名古屋に優位を譲るハメとなった原因のひとつに、このペスト禍があったかもしれない・・・と結んでありました。
大正五年十月八日、浜町の東洋紡四日市工場の仲仕の子供二人が耳下セン炎で死亡、病状があやしかったのと、最近付近に同様の病状で死んだものが数人いることから、警察医が調査、その結果十一日になってペストと断定された。
ただちに同紡績をはじめ浜町一帯をトタン板で囲って外界とシャ断、一斉消毒を行なったが、患者はその後も続々と発症、十月末までに計三十六人に達し、ほとんどが数日間のうちに死んでいった。
かかったら最後、まず助かる見込みがないといわれるペストだけに市民は恐怖のルツボにたたき込まれたのだ。
十一月にはいって発生地は浜町、北条町一帯だけでなく、納屋地区をはじめ市内全域に飛び火する状態になった。
初期の発症患者が倉庫関係者に多かったため、インドから輸入の綿花にその原因があると推定された。市は臨時議会を召集し、一般会計の約四割がその対策費に追加されることとなった。
ペスト菌を仲介するネズミの駆除に全市民は立ち上がった。市はネズミ一匹に四十二円の懸賞金をつけ、名古屋や大阪からもネズミ捕り業者が駆けつける騒動となった。こうして殺されたネズミは六万匹に及んだ。
ペスト禍は、十二月に入ってほぼ収まった。翌年の一月と四月に一人ずつ患者が出ただけで完全に終息した。
市内総患者数六十三人のうち五十六人が死亡した。恐るべき死亡率である。
このペスト禍は、四日市の商工業に大きな打撃を与えた。
四日市入港予定の船舶は、すべて名古屋に向かった為、港湾関係労働者は失業同然となり、四日市駅に下車する人影もなく、旅館はすべて開店休業。町ゆく人も少なく商店街は静まり返った。
時の飯田市長は政府に陳情、海港検疫所を設置して、船舶会社に掛け合い、船の入港に尽力した。
四日市港が名古屋に優位を譲るハメとなった原因のひとつに、このペスト禍があったかもしれない・・・と結んでありました。