昨日は三滝川堤防の桜がどのようにしてできたかの前編を書きました。
本町のカイマス氏のお父さんがスクラップしてみえた昭和42年中日新聞連載、稲葉桑太郎氏による「思い出の記」より三滝川堤の桜の由来、後半であります。
明治末期に始まる“親和会”が集めた三千円で、いよいよ三滝川堤に「染井吉野桜」を植えることにした。が、堤防は県の土木出張所の監督するところである。植樹の申請をしたところ、堤防破壊原因になるということでなかなか許可がおりなかった。長い年月と数十回に及ぶ交渉が重ねられて時日が経過した。市民の憩いの場所を作るのだからという大義名分が成功して遂に許可を得たのは昭和七,八年頃であったと思う。
川岸は、老松橋から慈善橋、三滝橋(旧道の)を通って明治橋の上流まで三滝川両岸の堤に直径二寸(6cm)高さ二間位(3.6m)の苗木を植えた。その後の監督、草刈り、施肥、毛虫取りは主として岩田治三郎氏が只一人にて人夫を督励して是に当たった。この努力は数年間続けられた。どういう訳け合いであるか三滝橋より下流の両岸は育ちが悪くて枯れ、三滝橋より上流のみが成績が良くて昭和十七,八年頃は西町裏の堤(川の南側)の桜の木は見事に育成して太き物は直径一尺(30cm)あるものも出てきて、花時には見物客や団子屋でにぎわった。
然るに、昭和二十年六月の戦災で人家に接近したものは家屋とともに消失した。
然し大部分は残っていたのであるが、戦後物資欠乏時代に横着物が枯れていると称して、枯れていない物までどんどん切り倒し、割り木にして燃料にしてしまったのである。只今ちらほらと残っているものは、その時、切り倒しの災厄をまぬがれたものである。まことに惜しいことである。
この桜の植樹に尽力した諸氏はすべて亡くなっており、親和会の会員もほとんど死亡して、親和会も自然消滅した。
けれど、平成の現在、桜並木は立派に残っていますよ。
っと!私すっかり海蔵川堤と三滝川堤を勘違いしておりました。陳謝!
本町のカイマス氏のお父さんがスクラップしてみえた昭和42年中日新聞連載、稲葉桑太郎氏による「思い出の記」より三滝川堤の桜の由来、後半であります。
明治末期に始まる“親和会”が集めた三千円で、いよいよ三滝川堤に「染井吉野桜」を植えることにした。が、堤防は県の土木出張所の監督するところである。植樹の申請をしたところ、堤防破壊原因になるということでなかなか許可がおりなかった。長い年月と数十回に及ぶ交渉が重ねられて時日が経過した。市民の憩いの場所を作るのだからという大義名分が成功して遂に許可を得たのは昭和七,八年頃であったと思う。
川岸は、老松橋から慈善橋、三滝橋(旧道の)を通って明治橋の上流まで三滝川両岸の堤に直径二寸(6cm)高さ二間位(3.6m)の苗木を植えた。その後の監督、草刈り、施肥、毛虫取りは主として岩田治三郎氏が只一人にて人夫を督励して是に当たった。この努力は数年間続けられた。どういう訳け合いであるか三滝橋より下流の両岸は育ちが悪くて枯れ、三滝橋より上流のみが成績が良くて昭和十七,八年頃は西町裏の堤(川の南側)の桜の木は見事に育成して太き物は直径一尺(30cm)あるものも出てきて、花時には見物客や団子屋でにぎわった。
然るに、昭和二十年六月の戦災で人家に接近したものは家屋とともに消失した。
然し大部分は残っていたのであるが、戦後物資欠乏時代に横着物が枯れていると称して、枯れていない物までどんどん切り倒し、割り木にして燃料にしてしまったのである。只今ちらほらと残っているものは、その時、切り倒しの災厄をまぬがれたものである。まことに惜しいことである。
この桜の植樹に尽力した諸氏はすべて亡くなっており、親和会の会員もほとんど死亡して、親和会も自然消滅した。
けれど、平成の現在、桜並木は立派に残っていますよ。
っと!私すっかり海蔵川堤と三滝川堤を勘違いしておりました。陳謝!