花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

古希を迎えた四日市 その3

2010年05月14日 | レモン色の町
本町のカイマス氏からお借りした昭和42年の中日新聞のスクラップ「古希を迎えた四日市」から。連載の第1回として市制70周年を迎えての“四日市の生い立ち”が記されております。
四日市が都市の形を整えたのは、応仁の乱後の文明二年(1470年)郷士の田原忠秀が浜田に本格的な築城をしたのが始まりでした。それまでは伊勢平野に位置する村落地帯に過ぎなかったのです。
都市といっても二,三百戸の家屋がを形成し、その中で月のうち六回、市がたつようになっただけのことでした。第一回が四日だったのでそれが「四日市」名の由来となりました。十八世紀には戸数が五,六百に増え鈴鹿越え、東海道、海路も開けて商取引の重要拠点になりつつありました。
江戸時代にはいり天領(幕府の直轄地)に指定され、武士の威圧感も比較的ゆるく東海道の宿場町、港町として栄えてまいります。
江戸時代後期の宿場町四日市は、現在の北町、中部地区の旧東海道沿いの一帯で、中部西小学校の位置に陣屋がありました。北町、旧南町(中部)の四つ辻には高札が立てられて町の中心を示し、付近には遊郭など旅籠が六十軒以上並んで、駅馬も最盛期には百頭近く用意されていました。
一方、辻から東へ伸びた港町の中心は、北、中、南納屋の一帯で肥料、米穀、油などの問屋が軒を並べ、港には熱田(現在の名古屋)航路の千石船、五百石舟が白い帆をはためかせてにぎわっておりました。
肥料問屋は千鰯(ほしか)と呼ぶ魚肥を主に扱い、五十軒近くありました。林立する倉庫から蔵町の由来となりました。
油商は、ナタネを原料とした食料油で「伊勢水」と呼ばれ、当時全国でも最大の生産地でした。このほか回船問屋、茶問屋などが栄え、豪商はこれら各種の問屋を兼業してひたすら富の蓄財をはかっておりました。
当時の肥料商は、農家に対して代金の収穫時払いという形をとっていましたが、一見人道的に見えるこの方法は、結局北勢地域の農業を経済的に支配する形になりました。九鬼、稲葉、山中、吉田など現在四日市の名門はすべてこれらの豪商であり、武士にかわる四日市の支配者だったのです。
彼らは営々と蓄積した巨大な資本を持って、つぎの時代の到来を待ち受けていたのです。