昭和35年、大船撮影所を訪れた佐藤忠男氏が小津組の撮影風景に遭遇していて“小津安二郎の芸術”朝日選書でこう書いています。
大島渚の「太陽の墓場」と野村芳太郎の「観賞用男性」のセットを見た後、何気なく次のステージをのぞいてみると・・・・
そこは、しいんと静まりかえって、暗く、ただ、その中央につくってある、ひとつのセットだけが明るく照らし出されていて、少人数のスタッフが、足音もほとんど立てないような感じで、ひっそりと仕事をつづけていた。それが小津組の「秋日和」のセットだった。




洋風の応接間のセットで、原節子が和服で椅子に腰を下ろし、その前に十朱久雄が立って、簡単なセリフをひとつ言う。そのセリフのトーンが気に入らないらしく、何度でも、何度でも、繰り返させられている。
原節子は、あの美貌を、ただ石のように冷たくしたままじっとしているだけであるが、十朱久雄は、すっかりコチコチになってしまって、汗をふきふき、一度演技するたびに恐縮しているようであった。
巨匠は、二人が演技している位置から六,七メートルほどはなれた同じセットのつぎの部屋に、カメラを床の上一メートルほどの位置に据え、そのわきに座布団を敷いてすわり、ときどきカメラをのぞいて、静かに、おなじ演技を繰り返させていた。
"芸術のことは自分に従う"の言葉にあるように、小津監督は自分の思う構想が撮れるまで、自分が納得するまで何度もやり直しを繰り返しました。役者が自分を失い人形になるまで。ただ、原節子と岡田茉莉子には納得が早かったようです。
大島渚の「太陽の墓場」と野村芳太郎の「観賞用男性」のセットを見た後、何気なく次のステージをのぞいてみると・・・・
そこは、しいんと静まりかえって、暗く、ただ、その中央につくってある、ひとつのセットだけが明るく照らし出されていて、少人数のスタッフが、足音もほとんど立てないような感じで、ひっそりと仕事をつづけていた。それが小津組の「秋日和」のセットだった。




洋風の応接間のセットで、原節子が和服で椅子に腰を下ろし、その前に十朱久雄が立って、簡単なセリフをひとつ言う。そのセリフのトーンが気に入らないらしく、何度でも、何度でも、繰り返させられている。
原節子は、あの美貌を、ただ石のように冷たくしたままじっとしているだけであるが、十朱久雄は、すっかりコチコチになってしまって、汗をふきふき、一度演技するたびに恐縮しているようであった。
巨匠は、二人が演技している位置から六,七メートルほどはなれた同じセットのつぎの部屋に、カメラを床の上一メートルほどの位置に据え、そのわきに座布団を敷いてすわり、ときどきカメラをのぞいて、静かに、おなじ演技を繰り返させていた。
"芸術のことは自分に従う"の言葉にあるように、小津監督は自分の思う構想が撮れるまで、自分が納得するまで何度もやり直しを繰り返しました。役者が自分を失い人形になるまで。ただ、原節子と岡田茉莉子には納得が早かったようです。