語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【本】『スエズ運河を消せ』 ~イリュージョンという武器~

2013年03月30日 | ノンフィクション
   

 (1)言い伝えによると、16世紀の英国の農場主ジョン・マスケリンは、黒魔術をもって農場を繁栄させた。その子孫も尋常でない力を発揮した。
 8代目のジョン・ネヴィル・マスケリンは、現代マジックの父と謳われる。彼の披露した“魔法の箱”は、二人の人物が一瞬のうちに入れ替わる、という当時としては驚くべきトリックだった。その並外れた発明の才は、実用にも発揮され、のちの業界標準となるタイプライターのキーボードの配列を発案したりもした。また、大砲の逆火から砲兵隊の兵士の手を守る軟膏を開発し、あるいは“マジシャンスパイ”を養成してアラビアのT・E・ロレンスに送り、英国の戦いにも貢献した。
 10代目のジャスパー・マスケリンが本書の主人公である。
 英国が独国に宣戦布告した1939年、ジャスパー38歳は、ショービジネスで成功したマジシャンだった。従軍したい、と一念発起するが、彼が得ていた名声がその希望の実現を妨げた。しかし、F・A・リンデマン教授/内閣府科学顧問が、ステージマジックを戦場に応用したい、というジャスパーの熱意を受け止めた。
 1940年、ジャスパーは応召し、カモフラージュ訓練開発部隊で軍事訓練を受けた。訓練教官のリチャード・バックリー少佐は、カモフラージュを視覚芸術である、と考え、その方面に能力のある人材を集めていた。その一人に動物の擬態を専門とするフランク・ノックス・オクスフォード大学教授がいて、後にジャスパーとチームを組む。

 (2)1941年1月、ジャスパーとフランクを乗せた船が出港した。彼らはエジプトの英国西方砂漠軍(後の第8軍)に派遣されることになったのだ。
 派遣された当座は、厄介者と見なされたらしい。しかし、ジャスパーは最初の任務で成功をおさめた。「魔法」という名の奇術をあやつる地元の長老とマジック勝負に勝利し、彼の影響下にあるデルビーシュを通って英軍が撤退できるようになったのだ。エルヴィン・ロンメル将軍隷下の独国アフリカ軍団が、1941年4月30日からトブルクを攻撃していた。トブルクが陥落すれば、英軍はカイロから撤退せざるをえない。
 だが、戦線は膠着状態に陥った。
 ジャスパーとフランクは、アフリカ軍団にトリックとイリュージョンをもって対抗すべく、チームを組織した。彼ら7人は後に「マジックギャング」と呼ばれるようになる。
 戦力があるように見せかければ、それは実際の戦力と同じ効果がある。それができれば、敵をこちらの思うがままに操れる。攻撃の方向を変えさせたり、攻撃を遅らせることもできる。偽のターゲットを攻撃させて弾薬を無駄遣いさせてもよい。そのターゲットを作るのがマジックギャングの仕事だ、とジャスパーは上官を説得した。

 (3)ジャスパーら7人のサムライの奇計は、実績を積むにつれ上層部の信頼を獲得し、次第に困難かつ大かがりなものになっていく。次の(c)が成功した後、擬装工作のための工場「魔法の谷」が建設された。
  (a)搬入された新しいマチルダ戦車を砂漠向きに色を塗り替えた(顔料は何とラクダの糞)。
  (b)戦車をトラックに擬装した(「サンシールド」)。
  (c)アレクサンドリア港を移動させた。・・・・夜間の爆撃に対し、近くにダミー港を擬装し、アレクサンドリア港を守った。
  (d)トブルクの重要な施設、浄水プラントが完全にダメになったと思わせる擬装をした。・・・・プラントの屋根に瓦礫の絵、側面にひび割れを描き、建築用ブロックのクズを周辺にばら撒き、偽の爆弾穴を掘った。
  (e)ダミー兵士、ダミー戦車、ダミー大砲を量産し、軍勢が増強され配備されたと擬装した。・・・・ダミー兵士はボール紙とキャンパス地、チューブで作られた)。
  (f)スエズ運河を消した。・・・・夜間、21機の“目くらましライト”が160km余りのスエズ運河を端から端まで守った。渦巻く光のカーテンを独軍の飛行機は終戦まで突破できなかった。なお、この技術は石油タンク集積地の防御システムともなり、また、本土のに導入されて英国空襲防御システムにおける重要な武器となった。
  (g)軍情報部第9課に協力し、ことに脱走の道具に手品のトリックを応用し、新たな道具を創出した(コンパスから弓のこまで)。
  (h)ダミーの潜水艦を作り、独軍が港を偵察しても活動中の潜水艦の実数を把握できなくした。
  (i)ダミーの戦艦を作り、補給船団の動きを規制した。・・・・実際には存在しない戦艦を巡洋艦に(容易に見破れる)擬装しているように見せかけて、戦艦が存在するものという錯覚を与えた(「騙しのテクニック」)。
  (j)補給物資を1,000m上空からパラシュートなしに落下させる方法を編みだした。・・・・衝撃を吸収する箱の中に紙張り子を詰め、吹き流しを箱の外部に取り付けて落下を安定させた。
  (k)前線観測所の偵察兵を隠すダミー砂丘とダミー木を大量生産した。

 (4)(3)はマジックギャングの仕事の一部にすぎない。
 戦況を変えるほどのイリュージョンは、エルアラメンの戦いで実現した。史上最大のマジック。論理的で、実用的で、突飛な計画だった。
 そこで必要とされるのは、(a)敵に致命傷を与えられる本物の軍。もうひとつは、(b)ボール紙と糊で作った軍。(b)は戦場に配置して敵の目に馴染むまでさらしておく。やがて敵はこちらの目的になかった結論を出してくれる。しかる後、頃合いを見計らって、黒いベルベットの夜のカーテンのなかで二つを取り替える。要は、巨大なステージの上で観客の注意をほかへそらす、という実に単純なトリックにすぎなかった。
 計画は、バートラム作戦と名づけられた。戦闘力のない輸送車や資材運搬トラックがラインの北側に集結していると見せかける一方、本物の装甲部隊は南側へ向かっていると見せかける。そして、最後はタイミングよく両者の入れ替えを行い、北側で攻撃を始める。
 マジックギャングは舞台をセットし、ダミー軍を生産し、南側に水のパイプラインを引くという擬装まで行った。他方、弾薬、軍需品、食料品が1ヵ月をかけて備蓄されていった。
 戦闘の細部は略すが、マジックギャング自ら、ボール紙の戦車と銀紙で作った鏡を用いて敵戦車の一分隊を撃退したことを付け加えておこう。
 ロンメル不在のアフリカ軍団は敗走した。

 (5)古来、戦さに奇計は付きものだ。本書は、科学と技術を支えにしたトリックとイリュージョンという武器を語る。それと同時に本書は、第二次世界大戦中のアフリカにおける英独の戦史である。そしてまた、ジャスパー・マスケリンという一人の魅力的な男の、生彩溢れる伝記でもある。

□ デヴィッド・フィッシャー(金原瑞人/杉田七重・訳)『スエズ運河を消せ ~トリックで戦った男たち~』(柏書房、2011.10)
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