語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『加藤周一自選集8 1987-1993』

2010年05月11日 | ●加藤周一
 「自選集」全10巻は、主題別の『加藤周一著作集』全24巻(平凡社)と異なり、発表年代順に編集されている。
 時代(の一部)を共有する作家の作品を発表年代順を読む楽しみは、ことに加藤周一のように文学のみならず政治や社会の動きに敏感な作家のそれを読む楽しみは、単に自分が生きた時代を回顧する作業を超えて、自分が生きた時代に加える別の解釈・・・・自分よりも深く、より広い解釈に出会う点にある。それは、自分の過去を再構成する作業に等しい。この楽しみは、自分が出会った芸術作品についてもいえるだろう。
 たとえば、本書の冒頭におかれた「『中村稔詩集』の余白に」。

 これは、1944年から1987年までの詩業をおさめる『中村稔詩集』(私家版、1987)【注】の読後感で、加藤は「一つの魂の戦後史である」と評する。かけ換えのない大切なものだけをうたってきた、と。そして詩の数行を引き、「これは私の同時代の歌である」と共感する。海辺の風景にはじまり、都会のビルの谷間に終わるこの詩集は、うたわれた素材も詩人の思いも、ほとんどを加藤が共有できるものだったらしい。
 本書には「海」と「ビル」が交互にあらわれるが、一方は他方を呑みこまないし、一方は他方に還元されない、と加藤はいう。詩人はビルの谷間で、つまり歴史的時間と社会的空間のなかで生き、かつ詩人は歴史的社会的に条件づけられる。人は「世界」の中の存在であり、「世界」は意識を超越する。・・・・そう断じたうえで、しかし逆に、と加藤はいう。「意識もまた世界に超越する。一個の具体的な生命の、個別性と一回性、『人ひとりの心の奥に 一杯の湧き立つ海』は、いわば世界の時空間に対して垂直な次元に、展開し、決して世界に包みこまれない」

 つまり、一方に条件づけれらた人間という存在があり(弁護士という中村稔の職業は多々の「条件」を意識せざるを得なかっただろう)、他方に条件の特殊性を超えようとする意思がある(「人ひとりの心の奥に 一杯の湧き立つ海」)。
 この「意思」は、病弱なため旅する余力がなく、追分の村で野草の写生にいそしんだ晩年の福永武彦にも見いだされる。
 「苛酷な条件のもとで、最後に残るのは、デカルトの『自由』である。なぜなら目標の実現は自由でなくても、目標の形成は自由であり得るからだ。人は世界をその目標との関連において意味づける。したがって目標の形成において自由だということは、世界の意味づけにおいて自由だということであろう。環境を変えることはできないが、環境の意味を変えることはできる。世界を変えるよりも、自分自身を変えよ。しかし自分自身を変えるのは、当人の意志の問題である。/福永には目標と意志があった。あるいは実現し得ない目標があったから、抜き難い意志があったというべきだろう。追分村から出ることのできなかった彼は、その環境の意味を変えた」(「福永武彦の『百花譜』」、「自選集」第6巻所収)。

 人間の歴史的社会的条件を説く者は数多くいるが、条件の特殊性を超えようとする意思を説く者はそう多くない。多くない一人が加藤周一である。
 そして、死せる孔明は生ける仲達を走らせ、死せる加藤周一は「苛酷な条件」のもとにある者を鼓舞する。

 【注】私家版は150部刊行され、中村の知友に配布された。後に、『中村稔詩集 1944-1986』(青土社、1988)として広く入手が可能になった。

□『加藤周一自選集8 1987-1993』(岩波書店、2010)
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