語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『日本文学史序説』~加藤周一の犀利にして痛烈な批評~

2010年07月04日 | ●加藤周一
 その特徴の第一。文学の概念は広い。詩歌や小説に限定しない。
 ジャンルは、宗教的または哲学的著作から農民一揆の檄文まで。形式は、漢文から口誦の記録まで。

 第二。時代のなかでの作品と作家を簡にして要を得た紹介をする(共時的な面)ととともに、先行する作品や著者、あるいは逆に遺産を引き継いだ作品や著者との関係(通時的な面)を立体的に位置づける。
 たとえば、第9章(第四の転換期 上)では漢詩人たちをとりあげ、次のように評する。
 18世紀末に起きた漢詩文の「日本化」は、19世紀に引き継がれた。「日本化」の過程におそらく決定的な役割をはたした詩人が菅茶山である。茶山は、題材を本朝の、同時代の、しかも殊にしばしば自分が一生を暮らした農村周辺の光景にとった。故事でも名所でもないものにも詩興を託した茶山の本領は、題材の新しさよりも日常身辺の風物に対する写実的態度にあった。哲学を去り、政治を避け、空想的主題ではなくて日常的事実に即し、修辞を誇張せずに写生に徹底した。
 「かくして詩は、日記や俳文の世界に近づく。というよりも、日本の土着世界観の一つの表現形式として、和文の日記や俳文や『随筆』とならぶのである」

 ちなみに、茶山の一世代後の梁川星厳たちは、別の「日本化」をすすめ、遊里をうたう詩を流行らせた。
 ついで、漢詩の「日本化」に応じて、古典シナ語の散文の「日本化」が進行した。代表は頼山陽であった。『日本外史』の論旨は支離滅裂なのだが、読者数は多かった。「山陽の歴史は彼の詩に他ならなかったからだ」
 「政治を説明することの無能力は、同時に、人物を躍動させる能力」でもあった。・・・・かかる評価は、ひとり頼山陽のみに与えられているわけではない。日本史上名高い他の人物、たとえば吉田松陰に対する評価にも通底する。

 第10章(第四の転換期 下)において、吉田松陰を次のように評するのだ。
 松陰の思想には独創性がなく、計画には実現性がなかった。しかし、この青年詩人は、体制が割りあてた役割を超えて歴史に直接参加するという感覚を、いわば一身に肉体化していた。その感覚こそ、1860年代に若い下級武士層をして維新の社会的変化に向わしめた動因である。
 松陰よりもはるかに現実的な政治家たちが改革を実行した。
 「詩人は死に、政治家は権力を握ったが、政治家に理想を--もし理想があったとすれば--吹きこんだのは、詩人であって、その逆ではない」

 文学をして単に時代を受動的に反映するだけのものとは目さず、(無論こうした一面があるとしても)より積極的に時代を動かす動因となった力を重視するのである。
 これを加藤「文学史」の特徴の第三としてあげてよいだろう。

 第四は、時空を裁断する犀利な論旨にしばしば随伴する痛烈な諷刺だ。
 たとえば、第6章(第三の転換期)において、狩野探幽を総括していう。
 「探幽は若くして江戸幕府に出仕し(1621)、武家屋敷や寺院の襖絵・屏風の類を多作した。その大画面には金箔を用い、幹の屈曲する松や、怖ろしげな(または、こけおどしの)竜や、力の強そうな(あるいは力みかえった)虎などを濃彩で描く。豪華で、いくらか空虚で、威厳を保とうとする狩野派の、殊に探幽の画面こそは、武士支配層の美的理想を--まさに建築における日光東照宮(17世紀前半)の成金趣味とならんで--、見事に表現していた」

【参考】加藤周一の『今昔物語』論
    加藤周一の大岡昇平論

□加藤周一『日本文学史序説(上下)』(ちくま学芸文庫、1999)
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