Googleは、奇妙な存在だ。よくも悪くもない。ただ、変な存在だと思う。
Googleは、設立当初から「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにする」というヴィジョンを掲げている。情報をシンプルにします、という内容だ。そのGoogleが、これほどまでに混沌として状況を作っている。彼らのもくろみどおりには進んでいない状況を含めて、「奇妙」という言葉を使っている。
Googleは、それ以前の検索エンジンと異なって、非常に精度のよい結果が出るうえに、その精度がいつまでも維持されている。
なぜGoogleだけにそれが可能だったか。
Googleの名高い検索アルゴリズムに「ページランク」がある。これは、「みんなが『このページはよい』と言ったページは、きっとよいものである」という簡単な仮説に基づく。ウェブの世界において「よい」という言明(相対的評価)は、ウェブページ間のリンクで表現される。みんなからよいと評価されたページによってリンクされたページもまたよいものである、ということだ。これら評価の連鎖関係をコンピュータで計算することができれば、最終的にページの絶対評価は自ずと決まる。こうしたやり方を提示し、サービスとして提供したのがGoogleの画期的な点だった。
外からの評価は、簡単にはコントロールできない。だから、登場以来10年以上経ても検索精度は落ちない。Googleが信頼される所以である。
「奇妙さ」の第一。
あるページを評価するためには、ウェブ上に存在する膨大な全ページを隈なくチェックしなければならないはずだ。「世界中の情報を整理する」という手段は、目的となってしまう。「世界中の情報を整理することによって、それを整理する」としか言いようのない状況になってしまった。
整理の対象としているウェブの規模が拡大していくのであれば、それに寄りそう形でGoogleも大きくならなければならない。自らの拡大をやめた途端に「情報の整理」ができなくなるからだ。
Googleは巨大化したが、半分は意識的に大きくしているのだとしても、半分は仕方なく大きくなったのではないか。
Googleの成長過程では、検索連動広告の「発見」があった。これにより潤沢な収入を得ることができて、規模の拡大が可能になった。Googleが保持する何十万~何百万台のコンピュータに電力を安定的に供給するために発電所の建設までやった。その側にデータセンターを建設した。これらハードウェアの設計から、関係するソフトウェアも自分たちで作る。それらすべてが「世界中の情報を整理する」というヴィジョンに奉仕している。
ここまでして情報は整理されなければならないものか。
「奇妙さ」の第二。
先日、Googleのデザイン責任者だったダグ・ボウマンの退社が話題になった。他の企業と同じくGoogleにおいてもデザインは重要な要素なのだが、デザインに係るGoogleの意思決定の過程がボウマンにとって問題だった。
Googleでは、たとえば検索結果のページに使用される水色は、コンピュータで使用できる1,600万色以上の色調のなかから選ばれる。考えうるかぎりの微妙に異なる水色のパターンを用意しておき、ユーザーに対してランダムに提示する。Googleには一日あたり何億ものアクセスがある。表示した色の違いによってリンクのクリックが多かったかどうかの変化を統計的に算出する。最終的にクリック率がもっとも高かった色が自動的に採用される。・・・・これがGoogleの基本的なデザインプロセスである。
デザイナーが生成するのは、デザイン「案」である。ほんとうに選択と決定をするのはユーザーだ。ただし、対話的にユーザーの声を聞いているのではなく、統計的に把握し、それだけが決定権をもつようなシステムを構築しているのだ。
フィードバックの概念、つまり外部からの反応が次の振る舞いを規定するということが、人間の知的活動であるデザインの世界まで入りこんだのだ。
ある主体がアイデアを出し、それに他者が応答していくプロセスが統計とフィードバックによって置き換えられる・・・・将来的には、エンジニアリングに対してもこのようなことが起きる可能性がある。
これに恐怖を感じる人間が出てくるのも当然だろう。
しかし、Googleだけが奇妙なわけではない。その土台たるウェブもまた奇妙なのだ。
ウェブが誕生したときから、ユーザーは読み手、書き手、編集者、評価者の役割が「混在」していた。
この特性をGoogleは十分に活かした。最近では、ソーシャル・メディアがその特性を見事に体現している。ウィキペディアもそうだ。
ただし、こうした特性は、ウェブが誕生して10年間くらいは誰にも認識されていなかった。だから、初期のヤフーは電話帳のウェブ版をめざした。
こうした流れを考えると、Googleへの人々の怖れを再考する必要がある。それは、ウェブが提示する世界観、以前とまったく異なる世界観に対する怖れなのだ。
情報間のリンクと、人間の間のリンクには質的な違いがある。人間ならばリンク先とリンク元を見ればその意味するところは理解できるが、コンピュータにその区別は難しい。だから、現在のウェブは、それらの意味を無視して構築されている。意味を無視したことで構築が容易になり、ウェブの爆発的な拡大が起こった。
情報と情報との間にある多様なつながりを表現できる環境を構築するために、ウェブにどのような要素を加えるべきか。これを考えているのがセマンティック・ウェブという研究分野だ。コンセプトは、人工知能という先行研究分野とウェブとの融合である。
【参考】大向一輝「Google の奇妙さ、ウェブの奇妙さ」(「現代思想」2011年1月号所収)
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Googleは、設立当初から「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにする」というヴィジョンを掲げている。情報をシンプルにします、という内容だ。そのGoogleが、これほどまでに混沌として状況を作っている。彼らのもくろみどおりには進んでいない状況を含めて、「奇妙」という言葉を使っている。
Googleは、それ以前の検索エンジンと異なって、非常に精度のよい結果が出るうえに、その精度がいつまでも維持されている。
なぜGoogleだけにそれが可能だったか。
Googleの名高い検索アルゴリズムに「ページランク」がある。これは、「みんなが『このページはよい』と言ったページは、きっとよいものである」という簡単な仮説に基づく。ウェブの世界において「よい」という言明(相対的評価)は、ウェブページ間のリンクで表現される。みんなからよいと評価されたページによってリンクされたページもまたよいものである、ということだ。これら評価の連鎖関係をコンピュータで計算することができれば、最終的にページの絶対評価は自ずと決まる。こうしたやり方を提示し、サービスとして提供したのがGoogleの画期的な点だった。
外からの評価は、簡単にはコントロールできない。だから、登場以来10年以上経ても検索精度は落ちない。Googleが信頼される所以である。
「奇妙さ」の第一。
あるページを評価するためには、ウェブ上に存在する膨大な全ページを隈なくチェックしなければならないはずだ。「世界中の情報を整理する」という手段は、目的となってしまう。「世界中の情報を整理することによって、それを整理する」としか言いようのない状況になってしまった。
整理の対象としているウェブの規模が拡大していくのであれば、それに寄りそう形でGoogleも大きくならなければならない。自らの拡大をやめた途端に「情報の整理」ができなくなるからだ。
Googleは巨大化したが、半分は意識的に大きくしているのだとしても、半分は仕方なく大きくなったのではないか。
Googleの成長過程では、検索連動広告の「発見」があった。これにより潤沢な収入を得ることができて、規模の拡大が可能になった。Googleが保持する何十万~何百万台のコンピュータに電力を安定的に供給するために発電所の建設までやった。その側にデータセンターを建設した。これらハードウェアの設計から、関係するソフトウェアも自分たちで作る。それらすべてが「世界中の情報を整理する」というヴィジョンに奉仕している。
ここまでして情報は整理されなければならないものか。
「奇妙さ」の第二。
先日、Googleのデザイン責任者だったダグ・ボウマンの退社が話題になった。他の企業と同じくGoogleにおいてもデザインは重要な要素なのだが、デザインに係るGoogleの意思決定の過程がボウマンにとって問題だった。
Googleでは、たとえば検索結果のページに使用される水色は、コンピュータで使用できる1,600万色以上の色調のなかから選ばれる。考えうるかぎりの微妙に異なる水色のパターンを用意しておき、ユーザーに対してランダムに提示する。Googleには一日あたり何億ものアクセスがある。表示した色の違いによってリンクのクリックが多かったかどうかの変化を統計的に算出する。最終的にクリック率がもっとも高かった色が自動的に採用される。・・・・これがGoogleの基本的なデザインプロセスである。
デザイナーが生成するのは、デザイン「案」である。ほんとうに選択と決定をするのはユーザーだ。ただし、対話的にユーザーの声を聞いているのではなく、統計的に把握し、それだけが決定権をもつようなシステムを構築しているのだ。
フィードバックの概念、つまり外部からの反応が次の振る舞いを規定するということが、人間の知的活動であるデザインの世界まで入りこんだのだ。
ある主体がアイデアを出し、それに他者が応答していくプロセスが統計とフィードバックによって置き換えられる・・・・将来的には、エンジニアリングに対してもこのようなことが起きる可能性がある。
これに恐怖を感じる人間が出てくるのも当然だろう。
しかし、Googleだけが奇妙なわけではない。その土台たるウェブもまた奇妙なのだ。
ウェブが誕生したときから、ユーザーは読み手、書き手、編集者、評価者の役割が「混在」していた。
この特性をGoogleは十分に活かした。最近では、ソーシャル・メディアがその特性を見事に体現している。ウィキペディアもそうだ。
ただし、こうした特性は、ウェブが誕生して10年間くらいは誰にも認識されていなかった。だから、初期のヤフーは電話帳のウェブ版をめざした。
こうした流れを考えると、Googleへの人々の怖れを再考する必要がある。それは、ウェブが提示する世界観、以前とまったく異なる世界観に対する怖れなのだ。
情報間のリンクと、人間の間のリンクには質的な違いがある。人間ならばリンク先とリンク元を見ればその意味するところは理解できるが、コンピュータにその区別は難しい。だから、現在のウェブは、それらの意味を無視して構築されている。意味を無視したことで構築が容易になり、ウェブの爆発的な拡大が起こった。
情報と情報との間にある多様なつながりを表現できる環境を構築するために、ウェブにどのような要素を加えるべきか。これを考えているのがセマンティック・ウェブという研究分野だ。コンセプトは、人工知能という先行研究分野とウェブとの融合である。
【参考】大向一輝「Google の奇妙さ、ウェブの奇妙さ」(「現代思想」2011年1月号所収)
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ブログ開設しておられたのですね。いろいろご報告したいこともありますが、折をみて・・・。
堀田善衞さんの絶版になっていたゴヤ、集英社文庫の方で再刊始まりました。ボリュームに圧倒されそうですが、今年の読書課題にしたいと思っています。
質・量に圧倒されています。最近愚痴しか書けない私です。{^_^;}
ウェブでは久しぶりです。
当ブログの開設は、昨年の1月29日です。
堀田善衛、まだまだ読み継がれてよい作家ですね。『ゴヤ』は、ハードカバー刊行当時に入手しました。とにかく風変わりな評伝です。
今年もよろしく願います。
昨年、ブログに山のように書いた酬いか、今年は元日早々、当地に雪が山のようにどかっと降りしきり、元旦は停電の中で迎えました。
あわや、生存証明ならぬ遭難証明になるところでした。
今年もよろしく願います。