古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。
アフォリズム集。
「荻生徂徠」の項にいわく、
<①荻生徂徠は煎り豆を噛んで古人を罵るのを快としている。②わたしは彼の煎り豆を噛んだのは倹約の為と信じていたものの、彼の古人を罵ったのは何の為か一向わからなかった。③しかし今日考えて見れば、それは今人を罵るよりも確かに当り障りのなかった為である>
①から③は、引用にあたって文ごとに仮につけた。
①において読者が通常着目するのは「古人を罵る」点。荻生徂徠の奇癖と見て、「ふむ、なるほど」で終わるのが通常だろう。
しかるに、芥川龍之介は②において焦点をずらす。枝葉の「煎り豆」を、さもこれが重大事であるかのようにクローズアップするのだ。そして、「倹約の為」と、もってまわった解釈をする。ここにおかしみが生まれる。著名かつ謹厳な儒者が、一転して世間によく居る吝嗇漢に変わるのだから。
②においてずらした論点を③で元にもどす。元にもどすが、②でとりあげた枝葉が茂りだし、意表をつく皮肉となる。つまり、徂徠が行ったこと(古人を罵る)ではなくて、徂徠が実際には行っていないこと、少なくとも行っていると周知されてはいないこと(今人を罵る)に着目し、行っていないことを非難するのだ。②で、人物の格が落ちた印象をいちど与えているから、「当り障り」のない議論をするのも当然な矮小な人物、という印象へさほど無理なくつながる。
機知とはかかるものか。華麗なレトリックと呼ぶべきか。しかし、嫌な論法ではある。難癖をつけようとすれば、いくらでも難癖をつけることができる、ということの見本だ。
しかし、耳をすませば、批評家の批評にいちいち反論できない実作者つまり龍之介の怨み節がかすかに聞こえてくるような気がする。つまり、常日ごろ、この調子で難癖をつけられているという思いが龍之介にあったのではないか。端正な文体で鋭い皮肉を放つ龍之介の仮面の裏には、繊細で傷つきやすい唯の人のハートがあったと思う。
□芥川龍之介『侏儒の言葉』(岩波文庫、1968)
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【参考】
「【言葉】瑣事 ~芥川龍之介の華麗なレトリック~」