(1)「政治の世界もな、義理と人情で成り立っているんだ」
忠治はこう言ったことがある。政局、時局が混乱を呈しながらも、党利党略、派閥の論理が優先される政治にあるこの言葉。義理と人情を重んじなければ、生きてゆけぬのが永田町という世界だった。
(2)(1)は、『政治家やめます。』の序章に出てくる久野忠治の観察だ。
義理とは何か。
万国共通に「おれも遣るからおまえも寄こせ(Do ut des)」だと、きだ みのるは整理する(『にっぽん』、岩波新書、1967)。
ここから「聞く義理はない」のごとき表現が生まれる。
(3)ところで、(1)の引用に続き、小林照幸は次のように書く。
「だが、それを貫き通すのには必然、統一郎は『いい人』にならなければいけないことを肌身を持って知った。統一郎の選挙区である知多半島の愛知8区、旧愛知2区で行われた市長選や県議会議員選挙の地方選でも、強く思い知らされた。自分を納得させて、偽る姿が必要だった」
(4)自分を偽るとは、どういうことか。
自衛隊は軍隊であり、違憲だ、と統一郎は考えていた。しかし、ガイドラインに反対の立場を持っていたとしても、自民党や派閥が成立に向けて動いている以上、反対の余地はなかった。そこまではまだいい。だが、自民党は自民・自由の連立に加えて公明党を抱きこんだ。1999年4月27日、3党の賛成多数でガイドライン関連法案は衆議院特別委員会で可決された。
統一郎は「冗談じゃないよ」とつぶやいた。これまでボロクソに両党が言いあってきて、泥仕合をした仲だ。社会党と組む以上の禁じ手じゃないか。
「『四月会』での活動、選挙区では公明党、創価学会を叩き、時にはコケにもしてきた。それが、こういう形にあるとは・・・・」
(5)自民党の公明党抱きこみを見て、統一郎は思い出した。かつて県議会選挙で一議席に二人の自民党候補を立てるのは変だ、と解決策を求めたところ、「自民党とはそういうところなんだッ!」と一喝されたのだ。
「政権を維持するためには何でもやる『何でもアリ』。それが自民党という、他の政党にはない強烈な個性だった。その個性があったからこそ、55年体制の単独政権もなし得たのであり、その個性がないから55年体制下で野党は野党だったわけだ。/統一郎は、3期9年となった代議士生活で55年体制の崩壊を見た。また、野党も『何でもアリ』となった。それを素直に受け取れる自民党の政治家も多いのだろうが、統一郎は、半田市長選の一件もあり、とても受け入れられなくなっていた。/(自分は政治家に向いていない。向いていないから政治家はもうやめよう。引退だ。疲れた・・・・)/永田町の出来事がいよいよ決意を固くしたのだ」
(6)政治家に向かない性格・・・・。
小林照幸は、久野統一郎のきちょうめんさにも、政治家に向かない性格を見てとる。
<統一郎は金の管理を自分で行うことにした。リクルート事件などで、献金には疑わしい視線が注がれるだけに、秘書任せは安心できなかった。(中略)この時点で既に統一郎は大物議員になる素養がなかったことになる。リクルート事件見られたように、大物議員は金の管理は自分では行わない。「秘書が」「妻が」と言ったように、万一のときに自らに危害が及ばないように、あらかじめ予防線を張っているのである。統一郎自ら管理するということは、根が真面目な統一郎の姿が反映されていたともいえる>
(7)贅言ながら、自民党から国政をになう政治家として立つには、統一郎と逆の性格を持てばよい。いや、これは独り自民党に限った話ではあるまい。
君子、危うきに近寄らず。金銭管理は細君か秘書に一任する。検察の質問には、知らぬ存ぜぬを通す。
党や派閥が政敵と野合しても気にしない。むしろ、党や派閥が勢力を拡大すれば、結果として自分がのし上がる好機と見る。昨日の敵は今日の友、明日にはまた敵になるかもしれないが、明日は明日の風が吹く。
そして、県会議員選挙において、それぞれ義理のある複数の候補が立った時、旗幟を鮮明にせず、いずれにも愛想をふりまくのだ。
□小林照幸『政治家やめます。 ~ある国会議員の十年間~』(角川文庫、2010)
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