語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【言葉】幸福に型はない

2013年03月02日 | 小説・戯曲


 「平凡な幸せなんてものを望んでいるわけか?」
 「一度はあきらめかけたけどね・・・・。人間て、手に入らないものほどほしいと思うでしょう?」
 「ああ・・・・。そんなものかもしれない。だが、どんな生活をしていても幸福だと感じるやつはいるし、不幸だと感じるやつもいる。幸福に決まった型などないんだぞ」

【出典】今野敏『終極 ~潜入捜査~』(実業之日本社文庫、2013.1)

 今野敏は、1989年の参院選でミニ政党「原発いらない人びと」から立候補、落選。環境問題と反原発の問題から、環境を破壊する「環境犯罪」という発想を得、潜入捜査シリーズ全5巻を書いた。『終極 ~潜入捜査~』はシリーズ最終巻。

 1978年、『怪物が街にやってくる』で第4回問題小説新人賞受賞。
 2006年、『隠蔽捜査』で第27回吉川英治文学新人賞受賞。
 2008年、『果断 隠蔽捜査2』で第21回山本周五郎賞、第61回日本推理作家協会賞(長編および連作短編集部門)受賞。
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【言葉】人はなぜ読書するのか

2013年03月02日 | 小説・戯曲


 「なにが書いてあるの?」
 「14世紀のことだ」
 彼は黙っていた。薪の端から樹液が流れ出て下の熱い灰の中に落ちた。
 「なんで1400年代のことを書いた本を読むの?」
 「1300年代。20世紀が1900年代であるのと同じだ」
 ポールが肩をすぼめた。「だから、なぜそんなことについて読むの?」
 私は本をおいた。「当時の人々の生活がどんなものだったか、知りたいのだ。読むことによって、600年の隔たりをこえた継続感を得られるのが好きなのだ」

【出典】ロバート・B・パーカー(菊池 光・訳)『初秋』(ハヤカワ・ミステリ文庫、1988.4)
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【本】ドルトン・トランボの闘い ~赤狩り時代のオスカー~

2013年03月01日 | ノンフィクション
 (1)第二次世界大戦後の冷戦時代、下院非米活動委員会の犠牲になったハリウッド映画人は多い。委員会で証言を拒否すれば証言拒否罪に問われ、入獄させられる。むろん、仕事は失う。といって、委員会に協力すれば裏切り者として友人を失う【注1】。
 赤狩りの脅威は1950年代、ずっと続いた【注2】。

 (2)こうした冷たい時代に抵抗しながら、みごとアカデミー賞を獲得した人もいた。主として脚本家だった。脚本家は、顔を表に出す必要がないので偽名、変名で仕事ができたからだ。もっとも有名なのは、ドルトン・トランボだ。非米活動委員会に抵抗したため入獄させられた“ハリウッド・テン”の一人である。
 仕事は、公的にはまったく来なくなった。しかし、偽名、変名で仕事を続けた。
 1957年3月29日の授賞式で、脚本賞のプレゼンター、デボラ・カーは『黒い牡牛』の「ロバート・リッチ」と発表した。しかし、会場から名乗りをあげて受け取る者はいなかった。ジャーナリズムは「ロバート・リッチ」を取材したが、この時点では正体は分からなかった。製作会社は、ただエージェントから脚本を買っただけで、「ロバート・リッチ」本人には一度も会ったことがない、という公式見解を繰り返すだけだった。
 これがアカデミー賞史上名高い「ロバート・リッチ」事件だ。今日では、「ロバート・リッチ」がトランボであることはよく知られている。トランボは、その後ハリウッドに徐々に復帰し、やがて実名で『スパルタカス』(1960年)、『曳航への脱出』(1960年)、『パピヨン』(1973年)などの大作を手がけ、さらに自分で原作を書いた『ジョニーは戦場へ行った』(1970年)【注3】を自ら監督もした。
 赤狩りに屈しなかった見事な映画人生だ。
 1975年、アカデミーは肺癌にかかったトランボに「ドルトン・トランボ」とはっきり名前を刻んだオスカーをトランボに与えた。
 トランボは、その翌(1976)年に死去したが、その直前にハワード・サバー・UCLA映画科教授は次の事実を明らかにした。「ロバート・リッチ」事件に先立つ3年前、1953年の脚本賞は『ローマの休日』のイーアン・マクレラン・ハンターというほとんど無名の(そしてその後もまったく仕事をしていない)謎の人物に与えられたが、実はハンターはトランボの替え玉だった。このことは、ハリウッドでは“公然たる秘密”だった。今ではハンター自身が、「あれはトランボの仕事。私は名前を貸しただけ」と証言している。
 つまり、トランボは2つのオスカー獲得者だったのだ。
 トランボが長い間この事実を隠していたのは、ウィリアム・ワイラー監督に累が及ばぬよう配慮していたためだった。

 (3)赤狩り時代の偽名、変名の事件は外にもある。
 1958年の脚本賞は『手錠のままの脱獄』のネイサン・E・ヤングに与えられたが、これは赤狩りの犠牲になって実名では仕事ができなくなっていたネドリック・ヤングの変名だった。
 1957年の脚本賞は『戦場にかける橋』の原作者であるフランス人のピエール・ブールに与えられたが、今日ではブールはただ原作を提供しただけで、実際に脚本を書いたのはマイケル・ウィルソンとカール・フォアマンだったことは公けに認められている。二人ともブラックリストに載っていて、実名で仕事ができなかったからだ。
 ウィルソンは、1951年に『陽のあたる場所』で脚本賞を受賞した後、パージされてしまった。その後、ウィリアム・ワイラー監督『友情ある説得』の脚本を書いたが、最後の段階でクレジットから名前がはずされてしまった。
 フォアマンが脚本を書いた『真昼の決闘』【注4】と、ウィルソンが脚本を書いた『友情ある説得』の両方に出演したゲーリー・クーパーは、一時は非米活動委員会に協力したが、その後赤狩りに反対し、フォアマンやウィルソンに無言のサポートを与え、励まし続けた。これらの作品を攻撃し続けた“愛国者”ジョン・ウェインと対照的だ。

 【注1】「書評:『眠れない時代』
 【注2】「書評:『外交官E・H・ノーマン その栄光と屈辱の日々1909-1957』
 【注3】「書評:『ジョニーは戦争へ行った』
 【注4】「【映画談義】『真昼の決闘』 ~大衆操作~」  「【読書余滴】「High Noon」 ~『真昼の決闘』~

□川本三郎『アカデミー賞 ~オスカーをめぐる26のエピソード~』(中公新書、1990。後に『アカデミー賞 ~オスカーをめぐるエピソード~』、中公文庫、2004.2)

 【参考】
【本】アカデミー賞 ~オスカーをめぐるエピソード~

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