どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

岩手県県議改選

2011-09-04 23:35:01 | インポート
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さて地方統一選挙第2弾。岩手県議改選と知事選。直前にあった盛岡市議会選の投票率の低さから、どうも戦々恐々の選挙になっているようだ。今日我が家の前を選挙カーが通った。この道はワゴン車が通るにはめい一杯の道で、自動車学校真っ青なクランクが待ち構えている。ここを通る事がそもそも異常だ。
市議会選より激しい選挙なのは確かだろう。
さて候補者ポスターで面白い事が解る。ポスターに占める顔の面積が、明らかに市議会選より大きくなっている。色使いとかはシンプルに、後は顔でインパクトと言う具合だろう。あとはポスターになんで立候補したのかという言葉がとても少ない。こういった所も市議会選の影響だろう。
あと知事選のポスターが若干大きい事が解った。知事選は立候補者が多い割には静かだ。もしかすると震災の被害が大きい沿岸部が主戦場になっているのかもしれない。現職の岩手県知事は民主党なので、菅元首相の悪影響があると誰もが思っていたし、宮城県知事に比べれば何にもしていないし地震でギックリ腰になったというウワサまで立った知事だ。立候補者が増えたのはそんな所だろう。
ちょっと変わったところで、ポスターがコピーという候補者がいる。この人は産廃業者。今回で4回目のチャレンジではないのか。イメージ作りが面白い。ただ、盛岡市ではこの人が市長ならいいかも知れないという声がある。なんで知事選?というのは確か。
注目はみちのくプロレスのザ・グレート・サスケ。たしか2期務めて前回落選した。芸名はともかくマスクで選挙に出ていいのかという議論はあったが、何か曖昧になっている。私としては、芸名もマスクも止めて欲しい。少なくともルチャ・リブレが全く根付いていない盛岡で、それでいいのかという気持ちが大きい。ここはメキシコではない。もちろん盛岡が、メキシコだったらもう少し面白い町かもしれない。
初めての選挙でメキシコのプロレス、ルチャ・リブレの里にするみたいな事を言っていたが、今回のコピーは理解が出来ない。もうやる気なし全開だ。
注目ポイントは実はそこではない。市議会選に彼の関係者と思われる人物が立候補していたのだが、あまりものやる気の無さに誰もがあぜんとしたのだ。結果46位で落選したのだが、おかげでサスケに悪い評判が立ってしまった。自分の選挙区での地盤を確認するためだけに、候補を立てたのではないのか、そう疑われている。
さすが××町の御曹司とか、稼いでいるんだねとか思われている。
この市議会議員候補のキャッチコピーもひどかった。盛岡の隣には日本最大の村があるのだが、盛岡とは絶対合併しないとがんばっている。当然盛岡市民の中にはその村の出身者がいたり理解をする人も多いのに、なんかこれを逆撫でするようなコピーだった。職業・政治家なのにやる気なし。少しはいい所を見せて欲しかった。
まあどうしてみちのくプロレス初期の悪役、スペル・デルフィンを立てなかったのかは不明だが、こっちの方が盛岡にはいいはずだ。
とりあえず選挙公報をじっくりとみたいのだが、まだ来ていない。震災から丁度6か月、ニューヨークの事件と同じ日だ。どうなるのか解らない。
解っているのは投票率が低いだろう、それだけだ。


農業問題8

2011-09-04 21:48:36 | インポート
さて長々と言っていたが、統計データーを見る。今回は総務省統計局の、日本のデーターから作ってみた。なお画面をクリックすると拡大するのでじっくり見て欲しい。
まずは総人口に対する農業人口。Photo
昭和55年から平成21年の29年間でかなり減ってきている。ここのところ安定しそうな気配がある。それでは男女・年齢比率はどうか。
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単位は1000人だ。図を作成するときに落としてしまった。
小さいのでよくわかりにくいが、農業は女性が支えている。これは兼業農家の場合、男性が別な職に就いているのだろう。税金とかいろいろありそうだ。
この統計では、単純に年代がシフトしていないのが解る。男女ともに60歳以上の就農者が安定しているからだ。どこかでリタイヤしているのだろうか。これはまとめた自分が驚いている。
ただグラフでは解りにくい所もある。数字でみれば15歳から59歳は男が23%に、女性は15%に縮小している。これに対して60歳以上は男で86%、女性で80%の人口減になっている。シフトはあるようだ。次にもしかするとなのだが、農家に嫁ぐ女性が減っているのかもしれない、というかそれは有名な話しなのだが数字はそれを物語っている。
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さてそれでは、耕地面積で農家の実態を考えたい。この場合北海道のデータはのぞいた。これは震災問題の意識が私にあるからだ。北海道は比較しにくい。また統計処理が平成18年度以降、0.5ha未満の農家が1ha以下になっているので昭和のデーターとそろえた。ちょっと実態とあわないかもしれない。それでは昭和55年のデーター。農業に関心のある人は、やっぱりなというデータだ。
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ここで解るのは、以外と大規模化が進んでいるという事だ。これは多分高齢化や土地から離れた人たちの遊休農地を耕している人が増えたのだろうと思う。しかし農家そのものは減っているので耕作放棄という(農地法から見ればそうなる。土地利用に関して、個人の自由だと思えばこの言葉は意味が無い)現象が増えているのだろう。
さて最も気になる、兼業農家だがどうなっているのか。まずは昭和55年のデーター。
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これもイメージ通りだろう。農地面積とも大体同じだと思う。しかし21年度ではどうなるのか。
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実は専業農家が増えて、1種兼業農家が減っている。2種も減っているが微減だ。
年齢別のデータとあわせると何が起きているのか解るかもしれない。多分大規模化・専業農家と小規模・兼業農家に分かれたのだろう。数字で見れば、専業農家は64%、一種兼業は23%、2種は35%ダウンしている。
経営的にも半端はだめだとなっているが、たぶんこれはその通りに推移しているのだろう。
実は別な統計データとあわせるともっとすごい事が解る。ただ統計資料が農水省の2005農業センサスになるので総務省の資料と時間的な齟齬がある。震災の影響で東北の3県が抜けているため、最新版のセンサスは概略だけが発表されている。このため扱いにくいのでセンサスは一括して並べない方がいいと思う。
今回は基礎資料を並べた。ただそれでもデーターを読むのがしんどかった。その上グラフを作って掲載するための手間が大きかった。数もあったし。
農業は簡単に批判出来る産業だ。なので私のようにいい加減な事もいくらでも言えるのだが、基本データに触れるのは大切だ。


工業・農業的

2011-09-04 06:03:28 | インポート
機械を作るときに金型が必要になる。精度が欲しいからだ。製品数がすくなれれば木型とかはある。木なので精度は悪い。大量生産と精密を考えれば金型になる。日本の工業を支える基礎なので、重要な役割だ。
この業界では、面白い商取引があるらしい。
発注主の設計通りに金型メーカーが作った物を、設計変更やうまくないとかで返品出来るようだ。そして発注主がその金型でうまく作れるのを確認しないと、発注主はお金を払わないようだ。結果納品から半年まで入金が遅れることがしばしば。それでいながら金型メーカーはそれにあった金属やら職人の給料まで払わなければ行けない。もうそのプロジェクトが消えたらどうしよう。
なぜこんな商取引になったのかはよくわからない。発注主は金型をいちいち保存しなければいけないとか、いろいろあると思うが、一番大きいのは金型を作るプライドだろう。最高の物を作るんだ!しかし小規模な会社が多く、価格交渉力は全くなく、職人かたぎに努力をしすぎる。結果倒産する。
多分精度が低かった時代の商取引だと思う。まだまだ残っているようだ。
農業と似ている。ただし金型では技術を真っ当に評価してくれる人がいる事だ。それは日本人ではない。隣の国だったりする。中国に日本の大手金型メーカーが買収された。
でも育ったのによそから奪われた悔しさが気になる今日この頃だ。そういいながら、国家社会主義をけなしまくったのが前の発言だった。
工業でも農業的かもしれない。その前に日本人は農業的なのかもしれない。
PS
富山県の金型組合が、インドネシアに工場を造ると発表した。


農業問題7

2011-09-04 05:07:06 | インポート
さて日本の農業政策の歴史を俯瞰してしまおう。一応細かく調べたが、おおざっぱな方が面白いと思う。年代がさがるに従って更におおざっぱになると思う。批判をください。勉強します。
まず農協がでてくる。国策として産業組合法が1900年に出来る。どうもドイツのギルドを参考にした物らしい。これと1896年に出来た農会という、農業技術の普及・向上を目指した組織があった。
この二つを第2次世界大戦中の1940年に、統制経済のために統合されて出来たのが農業会。現在の農協の原型。
チッラっと赤い兵隊とか赤い官僚という言葉を前に使ったが、当時の日本は貧富の差が激しかった。これをどうするのかで若手官僚や軍隊の若手幹部候補がけっこう共産主義を勉強していた。ただそのままでは日本にはあわないという事で、国家社会主義に向かう。これらが「赤い」と言われるゆえんなのだが、統制経済に彼らの考え方が現れている。
特に戦前の企画院は「経営と資本の分離」という政策を掲げている。資本と経営が一致していた戦前社会では、搾取が起きると考えていたフシがある。また赤い官僚たちはどうも戦前から農地改革をやりたかったようだ。
さて戦後だが、第一次吉田内閣のとき農水省大臣だった和田博雄(1903-67)だが、農水省・企画院と戦前動き、このとき農林水産大臣だった。なおこの後自由党から社会党に移籍する。赤い官僚だったようだ。
この第一次吉田内閣のときに、どうも彼が農業改革を言い出したようだ。当初GHQは乗り気ではなかったようだが、当時人口の30%を占めた農民が共産化するのを怖れて、計画にGOを出したらしい。戦争に加担した地主階級を懲らしめるためというのは多分いい訳だろう。実際林業には手を付けなかった。
戦後の日本は食料事情が悪く、配給制をとっていた。戦前と変わらない統制経済であった。これまたよくわからないのだが農業会が一翼をになっていたのだろう。GHQはこの農業会と違う組織を考えていたと言われているが、農地改革と統制経済下では組織を生かす方向で進んだのだろう。1947年に農業協同組合法が出来る。これが農協のはじまり。農地改革で増えた自作農民を一気に農協が編成して行く。
実は農水省はこの農協をあまり好きではなかったと言われている。確かに統制経済ではあったが将来的にはそれは外される政策だったからだ。それでも食料増産という点では、農水省と農協と農家がうまくかみ合って進んだと思う。
食料不足の中で、1952年農地法が制定される。食料確保のための法律でもあったが保守化した農民の固定化を計ったとも言われている。農業政策の硬直化に繋がる法律であった。
さてコメの新しい品種、あのまずいコメの代表とも言われるフジミノリやレイメイで、食料危機は乗り越えられた。食管法を止めて、コメを自由経済に戻そうと農水省は考えていた。特に池田内閣下で所得倍増計画が立ち上がり、これに対してコメの価格も倍にという運動が農協らからでていた。それでは食管法は立ち行かなくなる。農水省はそれを危惧していた。
しかしすごい事が起きたのだ。1961~65にかけて米不足が起きたのだ。これは第一次ベビーブームの子供が育ち盛りでいっぱいコメを食べたのが原因と言われている。当時の経済学者も誰もがこのままでは日本人は2億超えるのではないのかと思っただろう。子供は二人3人当たり前の時代だ。ベビーブーマーがその通りになったら確実にそうなる。未来の少子高齢化なんて当時は誰もが考えられない事だった。また世界の人口爆発が真剣に議論されていた。そこで食管法の維持と食料増産が決定してしまった。なお1966以降コメ余りが顕在し、食管法が完全に破綻するのは1993年の大凶作であった。食管法で規定していたコメの備蓄すら出来ないほど赤字が増大していた。
さて農協なのだが、この間にどうなっていたのかと言えば統制経済のコメを独占していた。また農地改革で小規模農家が多かったので大変だったと思うが、組織化には役立った。コメは高値だったしその手数料も馬鹿にならない。そこに現れたのが、高度経済成長だった。市街地の拡大や道路の拡張で、農地を売ってもうける農家が続出した。農家と認められる土地を残せば、農業の低率税も受けられる。そのお金が農協に流れ込んだのだ。
また畜産業が大きくなりその収入も農協に預金される。農協はもともとの業務より銀行化して行く。
しかし流れ込んだのはいいが、どう投資すればいいのかという問題になる。そこで旅行業などの多角経営をはじめる。そして農家のすべてを把握する集団になった。
いまはどうかと思うが、農業では半年単位での金の払いと言う習慣があった。例えば春に農家がタネを買うがツケ払いになる。収穫して売ってお盆あたりに入金する、そういったシステムがある。このシステムでは当然農家が弱い。しかしそれをどうするのかはサジ加減になる。このあたりを当然農協は解っているけど、金融業としてはリスクが高い。そこで準組合員制度を作る。その農協の地域に住んでいる人は農家でなくても準組合員として加入出来る。そして、正組合員の農家はリスクが高いから高金利融資、サラリーマンや公務員の準組合員はリスクが低いから低金利という、協同組合的ではないワケのワカラナイことが起きた。共同購入で安いはずの資材は、リスキーなので高値販売、業者との癒着も疑われている。経営指導や営農指導はがんばっているが、冴えない。
リーマンショックで、農林中央金庫が赤字を出していたような気がするな。郵便貯金ほどではないと謙遜するが、巨大金融機関でもある。
農水省と農協が結びつくのは、食管法維持以降だ。確かに保守化した農家に対して自由民主党が政治的に融通を利かせたかもしれないが、米の減反政策をうまく進めるためには農水省としては、一番大きな農協を窓口にせざるを得なかった。また自民党もその60年代のコメ危機で、議会で社会党にイジメられ、世論まで自民党批判を食らったトラウマがあるのだろう。食管法の赤字も、農協の政治力の前には無視された。
減反制度をどう農家に理解させるのか、ここからはじまった癒着。食管法の米の一時問屋としての農協は高値維持の地位を続ける。癒着する事で政策は実現出来たかもしれないが、結果農水省は農業政策を作れない状況になって行く。
ちょっと脱線して。実は80年代に既に年金破綻や健康保険破綻が取りざたされています。当然この頃になると少子高齢化が予測出来ています。食管法はこの辺りからメチャクチャ批判されています。ここで登場なのが、自由貿易です。アメリカに押し付けられたとか言いますがちょっと違う。今だったら解ると思いますが、日本は世界でも巨人だったのに、農政はなにも出来ない状態にあったと思います。そこを突かれたのが平成4年の騒ぎでしょう。
コメ不足で緊急輸入しましたから。
この処置でちょっと思いました。ミニマムアクセスなんか受けるまでもなく、全面自由化した方がいい。
しかしそれが誰も理解出来なかったのは、政治状況と農協です。特に農協はよくない動きをしたと思います。
平成4年の大凶作を予測出来た人はいました。農協には指導員からシステム的には今年はヤバイよ、的なことは単純な気温変化からも予測出来たと思います。それが出来なかったのは、農家が経営的に追いつめられていたからと思います。
倒産農家数の資料はあると思いますが、ちょっと発見出来ないので何とも言えませんが、感覚的に言えば80年代以降増加しているのではないかと思います。80年度後半あたりから北海道の酪農家の倒産があったと思いますし、その後死んだ牛が放置された事件が起きたりしました。北海道ではかなり早くからなにかが壊れたと考えています。
農協は、かなり前から農家を無視していたと思う。もちろんそうでない農協はいっぱいある。でも経営が銀行なのだから、産業発展という視座は無さそうです。今現在では農水省が農地法の改正やカロリーベースの農業生産高と輸入量とか恣意的すぎるデーターを振り回していろいろプッシュしていますが、銀行化した農協はうまく動けないようです。農業に関しては、奇跡的な発展でなんか神話が出来てしまったと思います。政治から経済までこれに毒されているように思います。
最後に私の知る限りの土地問題をいいます。
盛岡市で郊外にみたけという地域があります。戦後の引揚者のために開拓と作られました。しかも酪農だったので割当面積は大きかったようです。ただ地の利がいいので、高度成長で知る限り1億8千倍の地価の上昇がありました。計算はしていませんがインフレ率を換算しても相当な利益です。しかもこの場合一世代で財を作ったのです。この伝説は今でも生きているようです。
盛岡にはもっといい条件の土地がありました。太田地区です。しかし河があって橋も少なく無視されたようです。
また戦後のドサクサで土地権利が錯綜していたりしていたようで、これがうまく行かなかった理由のようです。ずっと宅地化したいと願っているようですが、うまくいっていません。
松園地区は山を切り崩すニュータウン計画だったのですが、団地が出来ても取り付け道路を作っていないという恐ろしい事業でした。地価の上昇を狙った地主(この場合は農家)がかなりいたようです。太田地区もそのケがあって、恣意的に道路が出来ているように思われます。
そういったことが許される時代ではないから、いろいろ見えるのかもしれません。とはいえこのあたりのややこしさは、農地法、農業振興法、都市計画法と土地利用に関する法律が錯綜しているのも原因です。この錯綜で割を食っているのが盛岡の太田地区です。特に農業振興法による農地転用が、市長の採決で決まるのも恣意的すぎると批判出来ます。
農協はその資本力で本来の農業事業を作り上げるべきだと思うのですが、歴史的に事業数が多すぎてなんとも出来ない状態になっていると思います。そこを整理して、農業投資をどうするのかが重要です。これを金融業者としての農協は、真剣に考えるべきでしょう。法的には生産出来るのですから。
PS
みたけ地区の土地の上昇率を計算し直しました。
盛岡の土地利用問題は、ある伝説があります。地域の経済リーダーがGHQにも妥協させたほど、絶対土地を売らないので有名なのですが、ちょっとそれに倣ったフシがあります。みたけの実例もありますが、最近では代が替わってこの伝説も弱まっているように感じます。